
「ミスター・セキュリティ」としてイスラエルを史上最も長く率いてきたベンヤミン・ネタニヤフ首相。愛称は「ビビ」。2度の失権から這い上がり、権力をほしいままにしてきたその巧みな政治術は「キング・ビビ」の愛称に相応しいとも言える。しかし、10月7日のハマスによる攻撃を招いた大失態は、その“キング”を窮地に追い詰めている。イスラエルのハマスとの戦いは、ネタニヤフ首相の政治生命をかけた戦いと言っても過言ではない。
ハマスは数千発のロケット弾をイスラエルに無差別に発射すると共に、イスラエルによって築かれたガザ地区周囲のフェンスを破って侵入作戦を実施。イスラエル南部の集団農場キブツや周辺で開催されていた音楽祭を襲撃し、あわせて1200人を殺害、約240人を人質として拘束するなど、イスラエルは建国以来最悪とも言われる被害を受けた。
最高指揮官の責任は
国民の信頼を受け、世界最高レベルとも言われてきた(自ら喧伝してきた)イスラエルの情報機関が、なぜ攻撃を事前に把握し、防ぐことができなかったのか。国民からの信頼は地に落ちたと言っても過言ではない。この失態を受け、国内の治安問題を管轄する情報機関シンベトのロネン・バル長官は10月中旬、「攻撃を防げなかった。責任は私にある」と発言。また、イスラエル軍の情報機関「アマン」のアハロン・ハリバ長官も、「私の指揮下にある情報機関は、ハマスよる攻撃を事前に警告するのに失敗した。私がすべての責任をとる」と責任を認めた。さらに、国防のトップであるヨアブ・ガラント国防相も、「防衛体制への責任を負っていたのはこの私だ。過去2週間に起きたことへの責任はこの私にある」と述べた。
ユダヤ人の迫害やホロコーストの惨禍を経て建国されたイスラエルにとって、安全保障は国是とも言える。イスラエルの情報機関モサドの伝説的な長官メイル・ダガンはかつて部下にこう言っていた。
「焦点を絞った攻撃を秘密裏に行ない、戦争を回避するためにできるかぎりのことをする。それがイスラエルの国防機関の仕事だ」
この意味では、国防の最高指揮官でもあるネタニヤフ首相が戦争を回避できなかった責任は大きい。しかし、当の本人は自身の責任を曖昧にし続けている。10月28日の安息日明けの午後8時の会見。イスラエルではゴールデンタイムだ。この中でネタニヤフ首相は、自身の責任について問われたが、「私を含め、誰もがこの大失敗について答えを出さなければならないだろう。しかし、それは全て戦争の後だ」と答えて、言及を避けた。ネタニヤフ首相の姿勢に対し、国民からの批判も強まっている。
「ネタニヤフか否か」近年のイスラエル政治
11月に死去したアメリカのヘンリー・キッシンジャー元国務長官はかつて「イスラエルに外交はない。国内政治だけだ」とも発言した。今のネタニヤフ首相の立場は、ここ数年の政治的な混乱とは切っても切り離せない。
過去数年のイスラエル政治の焦点は、ネタニヤフ首相をめぐる是非だったと言っても良い。2019年から2022年にかけて5度の選挙が行われたが、争点は、経済対策でも新型コロナ対策でも、もちろんパレスチナ問題でもなく、「ネタニヤフ政権の継続か否か」だった。
私のエルサレムでの取材生活も、この政治闘争に費やした時間が多い。2020年夏、私は新型コロナウイルスが猛威を振るう最中、エルサレム特派員として赴任を命じられ、イスラエルに向かった。経由地のフランクフルトで乗り換えを待っていると、イスラエル警察が、ネタニヤフ首相の汚職問題などに反対し抗議集会を開いた市民に放水車で対応したというニュースが飛び込んできた。「なんだこの国は」と思ったが、これがスタートだった。
放水車の出動現場となったデモ会場の近くに居を構えた私は、以後、毎週土曜日の安息日明けに行われる反ネタニヤフデモを目に(耳に)し続けることになる。そのデモ会場とは、首相公邸前の「パリ広場」。イスラエルのデモといえば、太鼓やラッパ、サッカー南アフリカワールドカップで一躍世界的な楽器となったブブゼラを鳴らしながらリズムに合わせて抗議の声を上げるもので、誤解を恐れずに言えば、サッカー観戦後の雰囲気に近い。
デモは1年間休むことなく続いた。そして1年後の2021年6月、デモ隊は歓喜に沸いていた。その年の3月に行われた総選挙の結果、強硬右派政党ヤミーナ(「右へ」の意味)を率いていたナフタリ・ベネット氏が、史上初めてアラブ系の政党を連立に招き入れることで組閣に成功。ネタニヤフ首相を退陣に追いやったのだ。
歴代最長政権を率いた首相の退陣は、イスラエルの政治史において歴史的な瞬間だった。外交を担うイスラエルの官僚でもある知人が、「正直、嬉しい」と言っていたのを鮮明に覚えている。当時のデモの人たちが標語としていた「Crime Minister」Tシャツもついに見納めだと思い、私も1枚記念に購入した。
しかし、後述するが、このベネット政権の誕生は、ある種の「反作用」を呼ぶことになる。
ベネット政権は、強硬右派、中道、中道左派、左派、アラブ系の政党が連立し、色とりどりであることから「万華鏡政権」とも呼ばれた。この8党を結びつけた接着点はただ1つ「反ネタニヤフ」だ。そもそも強硬右派として名を馳せていたベネット氏は、「アラブ系政党と連立を組むことはない」とメディアでも明言していたが、簡単に手のひらを返した。予想もしないことが起きるイスラエル政治の真骨頂だった。
一方のネタニヤフ首相の退陣は、“キング”への不信を象徴する形となった。組閣失敗の最大の理由は、かつて共に政権を担ったことがある政治家から悉く連立を断られたからだ。現在、中道派の「国家団結」の党首でもあるベニー・ガンツ氏は、ローテーション制度でネタニヤフ首相に代わり首相になるはずだったが、ネタニヤフ氏がその前に解散に打って出たことで、政治家としての夢は叶わなかった。そのガンツ氏、ヤミーナのベネット氏、ロシア系政党「イスラエル我が家」のアヴィグドール・リーベルマン氏、中道「イェシュアティド」のヤイール・ラピド氏と、ネタニヤフ政権で閣僚を担った政治家が次々と連立を断ったのだった。
不死鳥のように復活も、社会は分断
しかし、その8党連立政権は、1年後に崩壊。下野したネタニヤフ氏ら野党側の切り崩し工作の結果、政権側は、過半数(120議席中61議席)を割り込み、議会運営が立ち行かなくなった。その時の経緯は、この記事に詳細に記してある。2022年11月に5度目の総選挙が行われた結果、ネタニヤフ首相は極右政党の「宗教シオニズム」や、宗教政党との連立で合意。パレスチナに対して史上最も強硬な政権が発足し、ネタニヤフ氏はさらに強力になって復活したのだ。
この復活劇を生んだのがベネット政権の「反作用」とも言える。強硬右派として入植地の拡大などを訴えていたベネット氏がアラブ政党と連立したことを受け、入植者などの強硬右派の有権者は、「土地を明け渡さないためにも、とにかくもっと右派に行かなければならない」という思考に陥った。その結果、パレスチナ人の排除などを訴える極右政党の連合が、14議席を獲得し、第3党に躍進、キングメーカーとなったのだ。先述した通り、前回の組閣ですでに他の政党党首から連立を断られていたネタニヤフ氏は、極右との連立以外の選択肢はほぼなく、極右政党の政治家に財相などの閣僚ポジションを与えることで連立が成立した。まさに足元を見られた形だった。
政権発足直後から、イスラエル社会はかつてないほどの分断に陥ることになる。きっかけとなったのは、1月上旬、ヤリブ・レビン司法相が発表した司法制度改革案だ。改革案は最高裁判所の権限を弱めることが目的で、最高裁が下した判断を、議会の過半数の賛成で破棄できる条項が含まれるなど、民主主義の根幹である司法の独立を脅かすものだと市民が抗議の声を上げた。国内各地で毎週土曜の安息日明けにデモが行われ、アラブ系でもユダヤ教超正統派でもない、イスラエルの一般市民のデモ隊が警察と衝突し、時には、強烈な匂いのするスカンクウォーターを放水車で浴びせられる異例の事態となった。
イスラエルは自らを「中東で唯一の民主主義国」だと位置付けている。確かにイスラエルの司法制度は、パレスチナ人の問題に関しては、不利な判決が下されることが多いが、時には、パレスチナ人の権益を保護することもある。人権問題に取り組むパレスチナ人の弁護士でも、すべてではないがその司法制度には評価する部分があると話す。
毎週末の抗議運動は10月7日のハマスの攻撃が行われる前の週の土曜日まで続いていた。一方で、右派支持者は、この司法制度改革に賛同し、時にはカウンターデモが呼びかけられ、市民同士が対峙する場面も見られた。世論が分断し、反ネタニヤフ感情が高まっていた中で、10月7日のハマスの奇襲攻撃が起き、戦争に突入した。
見過ごされた警告
司法制度改革をめぐっては、抗議の一環として一部の予備役兵士が招集を拒否する動きも出るなど、国内の安全保障への影響も指摘されていた。イスラエル軍内の研究機関のトップは、ネタニヤフ首相に対し、敵対勢力が国内の分断によるイスラエルの弱体化をうかがっていると警告の書簡を2度も提出していたと報じられている。