ロシア・ウクライナ戦争“ゲーム・チェンジ”に備える――「ミンスク合意」二つの教訓

執筆者:篠田英朗 2024年7月23日
エリア: ヨーロッパ
アメリカでトランプ氏が大統領に返り咲けば、ロシアとウクライナの戦争にも“ゲーム・チェンジ”が起こる可能性は高い[英国を訪問したゼレンスキー大統領(右)をスターマー英首相が出迎えた=2024年7月19日、ロンドン](C)AFP=時事
戦闘継続が双方に合理的でなくなった時、停戦は本質的同意がなくても成立しうる。トランプ氏が再び大統領となるのであれば、「アメリカの対ウクライナ支援停止」によって、停戦気運が高まることを想定しなければならないだろう。ドンバス戦争でのミンスク合意は、力の均衡が崩れれば停戦も破綻するという負の教訓も示した。安全保障体制の構築に直接関与できない日本であっても、停戦状態の持続に資する政治配慮をした復興支援が求められる。

 ドナルド・トランプ前大統領狙撃事件は、米大統領選挙の行方を決したかのような雰囲気を作り出した。奇跡的に軽傷で済んだということだけでなく、退場時に拳を振り上げて「Fight(戦う)」と連呼した姿は、78歳の高齢を感じさせない力強さだった。ジョー・バイデン大統領(81)の撤退が決まり、民主党の大統領候補はカマラ・ハリス副大統領(59)に交代となる見込みだ。だがトランプ氏の強烈なイメージには簡単には対抗できないだろう。

 トランプ大統領が再現する時代に備えておく必要が出てきていることに変わりはない。外交面でまず一番大きな影響が出そうなのは、ウクライナ情勢だ。トランプ氏は、大統領就任の暁には、戦争を止めてみせる、と繰り返し発言している。

オルバン首相の「平和ミッション」が持つ影響力

 機を見るに敏という印象が強まったのが、ハンガリーのオルバン・ヴィクトル首相の「平和ミッション」だ。オルバン首相は、キーウを訪問してヴォロディミル・ゼレンスキー大統領に会って停戦を促してからすぐに、モスクワでウラジーミル・プーチン露大統領と会談した。そしてアゼルバイジャンで開かれたチュルク諸国機構(OTS)の非公式首脳会議に出席し、北京で習近平中国国家主席と会談をした。そのままワシントンD.C.で開催されたNATO(北大西洋条約機構)首脳会議に出てあらためてOTSの最大国であるトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領と会談をしてから、フロリダでトランプ前大統領と会う、という内容であった。

 欧米諸国首脳は「激怒」し、EU(欧州連合)高官も、たとえハンガリーがEU理事会議長国であるとしてもオルバン首相の訪問はEUを代表して行っているものではない、と火消しに必死であった。その後、ハンガリーが主催予定の会合の日程に合わせて、ジョセップ・ボレル外交安全保障上級代表が独自の会合を開催することを決め、ハンガリーの議長国としての権限にボイコットで挑戦するという動きも顕在化した。これに対してハンガリー側も態度を変えるどころか、反発を強めている。

 停戦を求める姿勢への世論の支持を含めて、オルバン首相の国内政治基盤は固い。また、オルバン首相は、先の選挙後に第3勢力の会派として誕生したEU議会会派「欧州の愛国者(PfE)」に対しても、自らが党首を務める「フィデス=ハンガリー市民同盟(Fidesz)」を通じて、主導的立場を持つ。今回の「平和ミッション」で、国外の主要国に歓待される立ち位置を持っていることをアピールし、さらにはトランプ前大統領と通じていることも強烈に印象づけた。スロヴァキアなど既存のEU/NATOのウクライナ政策に懐疑的な諸国に、オルバン首相は影響を及ぼしていくだろう。

 日本としては、ここまで積み上げてきたウクライナ支援の実績を、無駄にすることはできない。だがアメリカにトランプ大統領が誕生すれば、オルバン首相をはじめ、それを待ち構えている人物たちの動きも加速し、ある種のゲーム・チェンジは起こる。その現実から、目をそらすわけにもいかないだろう。

相互損失的膠着は「成熟」しつつある

 2022年の全面侵攻直後に、「抗戦か、降伏か」という議論が盛んになされた。たしかにキーウを陥落させる勢いのロシア軍を前にして、この問いは、現実性があった。だがキーウ攻防戦は、2カ月弱で終わった。2022年後半に、奪われた領土をウクライナ軍がだいぶ取り返してから、基本的には一進一退の膠着が続いている。

 もちろんウクライナの主権にもとづく領土保全の原則からすれば、領土の割譲も武力による手段でなされてはならない。したがって「戦争継続か、領土割譲か」という問いも、当初の問いと同じような内容を持つものとして成立しうると言えば、そうだろう。

 だが停戦は、理論が美しくなった時に達成されるのではなく、合理的になった時に達成される。紛争当事者の双方が停戦に合理性を見出せば、何らかの方法で武力衝突を停止する仕組みが模索されるだろう。その瞬間は、アメリカからのウクライナへの支援が止まる時に訪れる可能性が高い。すでに双方が相当に疲弊したまま、膠着状態が続いているからである。 

 ドンバス戦争に関して締結されたミンスク合意の先例を考えてみよう。2014年9月のミンスク議定書の仕組みでは、ウクライナは領土の割譲に応じることなく、停戦に同意した。ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の代表者が合意に調印する当事者となることも認めた。調停にあたったOSCE(欧州安全保障協力機構)が監視役を担う形で、ロシア・ウクライナ国境を監視しつつ、違法武装集団、軍事装備、兵士・傭兵をウクライナの領域から撤退させることが決められた。ウクライナ政府支配地域と反乱軍(人民共和国)支配地域の境界線が引かれ、その両側に幅15㎞ずつ(合わせて30km)の緩衝地帯を作ることや、セキュリティゾーン上での軍用機での戦闘を禁止することなどが定められた。これはドネツクとルハンシクの州都を、反政府(人民共和国)軍側が制圧している現実を見て、両都市に戦線が到達しないように線引きがなされたものである。

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
篠田英朗(しのだひであき) 東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程、ロンドン大学(LSE)国際関係学部博士課程修了。国際関係学博士(Ph.D.)。国際政治学、平和構築論が専門。学生時代より難民救援活動に従事し、クルド難民(イラン)、ソマリア難民(ジブチ)への緊急援助のための短期ボランティアとして派遣された経験を持つ。日本政府から派遣されて、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で投票所責任者として勤務。現在も調査等の目的で世界各地を飛び回る。ロンドン大学およびキール大学非常勤講師、広島大学平和科学研究センター助手、助教授、准教授を経て、2013年から現職。2007年より2024年まで外務省委託「平和構築人材育成事業」/「平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業」を、実施団体責任者として指揮。著書に『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)、『集団的自衛権の思想史―憲法九条と日米安保』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(いずれもちくま新書)、『憲法学の病』(新潮新書)、『パートナーシップ国際平和活動』(勁草書房)など、日本語・英語で多数。
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