
今の住処に引っ越して二年近くが経った。あっという間に二年。もう新しい街には馴染みましたかと、ときどき知人から問われるが、そのたびに、うーんとしばし考える。
街に馴染むとはどういうことだろう。なにをして馴染んだと実感できるのか。
本当は海の見える家に住みたかった。それは長年の夢であり、憧れでもあった。朝、目がさめて窓の外に目をやると、そこにキラキラした海が広がっている。夕方ふと目を上げると、海の彼方の水平線にオレンジ色の巨大な太陽が沈もうとしている。夜、部屋の灯りを消して枕に頭を埋め、耳を澄ますと、かすかにザザー、ザザーという波の音が聞こえてくる。そういう日々を常として生きてみたい。
二年前に引っ越しをしようと決めた当初は、おおいにその気であった。もはや夫婦ともども七十代にならんとしている。体力気力を要する家の引っ越しをするのはおそらくこれが最後になるだろう。終の住処と定めるならば、いよいよ海の見える家を目指すときがきた。あちこちに喧伝し、不動産屋さんを紹介してもらい、あわよくば、「ちょうど逗子の家を売りたいと思っている人がいてね」なんておいしい話があったらいいなあなんて、かすかに期待した。実際、「伊豆はどう?」とか「千葉方面なら任せてよ」とか、さらに岡山の友人紳士から、「それなら瀬戸内海がいちばん。海は穏やかだし魚はうまい。私がいい物件を探してあげよう」とご親切な便りが続々届くようになった。もはや私の心は「八月の鯨」のリリアン・ギッシュ。が、同時に強力なる反対意見もあまた飛んできた。

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