やっぱり残るは食欲

街馴染み

執筆者:阿川佐和子 2025年2月13日
タグ: 日本
魚の並びの多いスーパーは、とても重宝しますよね(写真はイメージです)

 今の住処に引っ越して二年近くが経った。あっという間に二年。もう新しい街には馴染みましたかと、ときどき知人から問われるが、そのたびに、うーんとしばし考える。

 街に馴染むとはどういうことだろう。なにをして馴染んだと実感できるのか。

 本当は海の見える家に住みたかった。それは長年の夢であり、憧れでもあった。朝、目がさめて窓の外に目をやると、そこにキラキラした海が広がっている。夕方ふと目を上げると、海の彼方の水平線にオレンジ色の巨大な太陽が沈もうとしている。夜、部屋の灯りを消して枕に頭を埋め、耳を澄ますと、かすかにザザー、ザザーという波の音が聞こえてくる。そういう日々を常として生きてみたい。

 二年前に引っ越しをしようと決めた当初は、おおいにその気であった。もはや夫婦ともども七十代にならんとしている。体力気力を要する家の引っ越しをするのはおそらくこれが最後になるだろう。終の住処と定めるならば、いよいよ海の見える家を目指すときがきた。あちこちに喧伝し、不動産屋さんを紹介してもらい、あわよくば、「ちょうど逗子の家を売りたいと思っている人がいてね」なんておいしい話があったらいいなあなんて、かすかに期待した。実際、「伊豆はどう?」とか「千葉方面なら任せてよ」とか、さらに岡山の友人紳士から、「それなら瀬戸内海がいちばん。海は穏やかだし魚はうまい。私がいい物件を探してあげよう」とご親切な便りが続々届くようになった。もはや私の心は「八月の鯨」のリリアン・ギッシュ。が、同時に強力なる反対意見もあまた飛んできた。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
阿川佐和子(あがわさわこ) 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』、『レシピの役には立ちません』(ともに新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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