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〜国際情勢の重要人物を徹底解説!〜
中国

陳文清
ちん・ぶんせい、チェン・ウェンチン

共産党中央政法委員会書記

1960年1月生、四川省眉山市仁寿県

西南政法学院法律学部法律専攻(1980~84年)卒業、四川聯合大学(現四川大学)管理学研究所企業管理専攻研究生課程班(1995~97年)

「中国法学の黄埔軍校(孫文が1924年に広州に設立した陸軍軍官学校)」と呼ばれる法律系の名門・西南政法学院(現西南政法大学、重慶市)を卒業後、四川省楽山市の農村にある派出所勤務からキャリアを始めた。楽山市公安局長(警察署長)(1992~94年)、四川省国家安全庁長(1998~2002年)、同省人民検察院検察長(検事正)(2002~06年)などを歴任した叩き上げ。同検察長には42歳の若さで就いた。

陳文清が国家安全庁長を務めた1999~2002年、四川省トップは周永康党委書記。陳は、周の秘書役である省政府副秘書長を兼務し、もともとは周の側近だった。中国紙・京華時報(2016年11月)は、「陳文清は自らチームを率いて四川省各地に出向き、迅速に他部局と協調し、四川省の安全を全国トップクラスにし、省党委や国家安全省から高く評価された」と報じており、現場主義で周永康の信頼を勝ち取り、出世街道を歩んだ。当時、「邪教」として江沢民政権が摘発を進めた「法輪功」や、人権活動家への断固とした厳しい対応が評価されたとみられる。

2006年には福建省に移った。同省の党規律検査委員会書記、党委副書記を務めたが、当時最年少の省規律委書記だった。12年に中央規律検査委員会副書記に就いた際も最年少の中央規律委副書記(~15年)と注目された。この間の12~13年に福建省陸軍予備役高射砲兵師団第一政治委員を務めているが、詳細は不明。

福建省は習近平が2002年まで省長を務め、習に近い幹部が多数いた。ここで間接的に習との関係が構築されたとみられる。

2012年に総書記となった習近平は、盟友の王岐山・党中央規律検査委書記と共に「反腐敗闘争」を展開。この時、公安・国家安全・検察など「政法系」を支配し、中央政法委委員会書記(政治局常務委員)引退後も権勢を誇った周永康を摘発のターゲットとした。

ここで陳文清に白羽の矢が立った。陳を福建省から北京の中央規律検視委に呼び、王岐山の片腕としたのだ。陳は四川省で周永康の側近だったため、当然、周との繋がりが残っているとの疑念はあったが、周の金脈や人脈を熟知していることから、習近平は陳が自身に忠誠を誓っていると確認し、登用したとみられる。

その結果、周永康は2014年に失脚、15年に無期懲役判決を受けるが、陳文清は同年、スパイ摘発を担う諜報機関・国家安全省に移り、翌16年からは国家安全相に就く。まだ周永康の「残党」が残る「政法系」に入り、習近平の福建省勤務時代からの側近で公安省入りした王小洪(現公安相)、習近平の浙江省時代の副秘書長で党中央政法委秘書長の陳一新(現国家安全相)と共に、周永康残党の元公安省幹部らを一掃した。

2022年の共産党大会で陳文清は、中央政治局委員に昇格し、党中央政法委書記に就いた。2007年の周永康以降、同委書記には公安相が就くことが慣例だったが、国家安全相から政法委書記に就く異例の人事の背景には、習近平の陳文清への信頼と共に、「国家安全」を最優先する習近平の政治姿勢がある。習は、米日欧といった西側民主主義陣営の価値観や影響力が国内に浸透し、共産党一党体制が揺らぐ事態に危機感を募らせている。日本人ら外国人を次々と「スパイ」として拘束しているが、これも習の意向を受けた陳文清の陣頭指揮で進められているとみられる。

陳文清は2018年10月末から11月上旬、極秘裏に東京と京都を訪れた。東京では日本政府高官と会談し、日本人拘束問題も話題に上ったが、解決せず、今も拘束は続いている。

(執筆・監修:城山英巳

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