2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻から、トルコの地政学的重要性が改めて脚光を浴びている。フォーサイトにおいても多くの書き手がトルコの各地域における外交的な影響力について論じてきた。サウジアラビアやエジプトなどのアラブ諸国やイスラエルとの関係改善、第2次ナゴルノ・カラバフ戦争でのアゼルバイジャンへの支援、さらにはロシア・ウクライナ間での積極的な中立外交など、トルコのプレゼンスが発揮されている場面は枚挙にいとまがない。この9月には日本から多数の国際政治学者・地域研究者が参集し、イスタンブール・アンカラで講演会・シンポジウムを開催したことも記憶に新しい。かくいう私も同イベントには末席にて参加し、トルコの国際政治における中心性を実感することができた。
これらの外交攻勢に加えて注目されているのが、トルコのエネルギー地政学における重要性である。2022年9月26日に生じたロシアとドイツを接続する天然ガスパイプライン「ノルドストリーム1・2」の損傷を受け、ロシア産天然ガスを欧州に輸出する主要な「代替輸出ルート」としてトルコが浮上してきたのである。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は昨年10月13日、トルコに地域の『天然ガスハブ』を設置することを提案し、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領はこれを歓迎したと報じられた。
この「天然ガスハブ」構想とはどのような構想なのか。欧州ガス市場にとって、ロシアのガス輸出政策にとってどのような意義を有するのか。そしてトルコは「天然ガスハブ」によってこれまでになくエネルギー地政学上の重要性を高め、天然ガス取引を通じて欧州諸国やロシアに対する影響力を増大させることになるのだろうか。
1.「天然ガスの交差点」としてのトルコ
プーチン大統領が提案した「天然ガスハブ」の具体的な内容は、提案から1年を経た現在も明らかにされていない。しかし、この提案に関するエネルギー専門誌などの報道情報から、そのコンセプトがどのようなものかを垣間見ることができる。「天然ガスハブ」構想は、トルコ北西部の欧州部分に位置するトラキア地方に輸送ハブ施設を建設し、トルコに存在するパイプラインやLNG(液化天然ガス)輸入施設、ガス貯蔵施設を物理的に接続するか、異なる天然ガス供給源の基準価格を決定する電子プラットフォームを設置するというものである。ハブが機能した場合、産ガス国はトルコを通じてより多くの天然ガスを供給でき、欧州諸国は競争力のある価格の天然ガスを購入することが可能になるという。ロシアはこれらの構想を通じて、トルコ経由で欧州市場への天然ガス輸出を増加させようとしているのである。
プーチン大統領がこのような提案を行った背景には、トルコがかねてより欧州諸国への「エネルギー回廊」として機能してきたことがある。トルコには図1のとおり、5本の天然ガスパイプラインと5基のLNG輸入ターミナルが集約されている。トルコが中東・欧州・中央アジアなど各地域の結節点にあたる地政学的な要衝に位置することから、イランやロシア、アゼルバイジャンといった産ガス国はトルコを南・東欧市場に向けたエネルギー輸送路として活用してきた。
また、トルコ自体も世界有数の天然ガス消費国であるということを忘れてはならない。トルコは年間53bcm(十億立方メートル)の天然ガスを消費している一方で、国内生産量は0.4bcmとごくわずかである。そのため、5つのガスパイプラインのうちイラン・トルコ天然ガスパイプラインはトルコへの輸入のみを目的とし、その他4つのパイプラインは欧州向け以外にトルコ国内向けにも天然ガスを供給している。また5つのLNG輸入施設は、主に天然ガス需要がピークを迎える冬季に、トルコ国内に追加の天然ガスを供給するために用いられている。トルコ自体が持つ旺盛な天然ガス需要は、天然ガスを多く供給したい産ガス国にとってさらなる魅力の1つとなっているのである。
2.「天然ガスハブ」の裏にあるトルコの二面性
ここで重要なのは、トルコは2000年代から、欧州諸国にとっての「脱ロシア天然ガス供給源」、ロシアにとっての「脱ウクライナ天然ガス供給ルート」という2つの潜在的な役割を有してきたという点である。
トルコは1990年代後半から、自国の天然ガス需要増加を懸念してイランやアゼルバイジャンとのパイプライン接続に向けた働きかけを強めてきた。米国はトルコを通じて欧州諸国へのガス輸出が可能であることに着目し、この取り組みを「脱ロシア天然ガス供給源」の確保につながるとして強く支持してきた。この試みは現在、カスピ海に位置するアゼルバイジャンのシャー・デニスガス田から南コーカサス天然ガスパイプライン(SCP)、アナトリア横断天然ガスパイプライン(TANAP)、アドリア海横断パイプライン(TAP)の3つの天然ガスパイプラインを経て南欧諸国へ天然ガスを提供する、「南ガス回廊(Southern Gas Corridor)」(図2)に結実している。ロシアのウクライナ侵攻以降は、EU(欧州連合)が主導する「南ガス回廊」の拡張に向けた取り組みが進んでいる。
ロシアはこの「脱ロシア」の試みに対し、自国からトルコを経由して欧州ガス市場に達する天然ガスパイプラインを構築することで対抗しようとした。この試みが実現した結果が、現在のブルーストリーム、トルコストリームの2つのパイプラインである。しかしこれらのパイプライン構想は、「脱ロシア天然ガス供給源」に関する取り組みと同時期に始まるロシア・ウクライナ間の天然ガス価格をめぐる紛争の結果、全く異なる意義を有することとなった。つまり、ウクライナとの天然ガス価格をめぐる紛争の影響を受けずに欧州市場にガスを供給する「脱ウクライナ天然ガス供給ルート」としての意義である。
プーチン大統領による「天然ガスハブ」構想は、このトルコの二面性を最大限に活用するものだと推測されている。ロイターはこの構想について、欧州諸国がトルコの「天然ガスハブ」を経由することで、ロシア産ガスの出自が隠される可能性を懸念していると報じた。つまり、プーチン大統領はノルドストリーム1・2に代わる「脱ウクライナ天然ガス供給ルート」として、TANAPを通じて少なくとも一部は「脱ロシア供給源」としての役割を果たしてきたトルコをいわば「裏街道」として活用する算段であると推測されている。現にノルドストリーム1・2の停止後には、トルコ経由の輸出がロシア産ガス輸出の少なくとも半分程度を占めており(図3)、ロシアはこの傾向を加速させ、さらなる欧州市場への輸出を望んでいると見られている。
さらにトルコでは、2020年8月に黒海・深海で発見されたサカルヤガス田の開発が進んでいる。サカルヤガス田の埋蔵量は発見時には320bcm程度と推定されていたが、3年間の探鉱活動の成果によって段階的に埋蔵量が増加し、現在は東地中海で発見されたゾールガス田(エジプト)やリヴァイアサンガス田(イスラエル)に匹敵する710bcmの埋蔵量を有すると見積もられている。同ガス田は2023年4月に生産を開始しており、オペレーターのトルコ国営石油会社(TPAO)のメリハ・ハン・ビルギンCEOはガス田の生産開始式典において、2023年9月に日量1000万立方メートル、その後最終的には日量4000万立方メートル(現在のトルコの天然ガス需要の30%弱に相当)を生産する見込みであると発言した。つまり、サカルヤガス田が順調に生産を伸ばした場合、これまでトルコに供給されてきた天然ガスの一部を欧州諸国向け輸出に振り向けることが可能になる。
これらの情報を総合すると、将来的にはロシア産や自国産を含む欧州向けのパイプラインガスの多くがトルコを経由して供給されることとなる。その場合トルコはまさにユーラシア大陸における「天然ガス取引の心臓部」となり、欧州諸国とロシアの両方に対して絶大な影響力を及ぼすことができるようになる、という推測が成り立つように見える。
3.「天然ガスハブ」をめぐる2つの神話
しかし、この構想を物理的なインフラや天然ガス売買契約の観点から精査すると、上述した推測は「幻想」であるということが分かる。以下では、この構想に関する「ロシアはトルコの『天然ガスハブ』を通じて天然ガスの出自を隠すことができる」、「トルコは『天然ガスハブ』を用いてロシアと欧州諸国とのガス取引に影響力を持つ」という2つの「神話」を検討する。……
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