医療崩壊 (65)

「サル痘」と「バイオテロ対策」の見過ごしてはいけない深い関係

執筆者:上昌広 2022年8月4日
タグ: 日本 感染症
エリア: その他
潜在するバイオテロリスクに備えるためには、感染症対策から自衛隊を疎外してはならない[国内初のサル痘感染者が確認され、記者会見する厚生労働省の幹部ら=7月25日](C)時事
本来はアフリカの風土病だったサル痘への国際的対応が素早く進む一因には、天然痘ウイルスを使ったバイオテロへの備えが生きたという背景がある。天然痘ウイルスへのワクチンはサル痘にも有効だからだ。ただし、感染拡大はバイオテロの予防体制が脆弱であることも示している。

 サル痘が流行している。7月28日、世界保健機関(WHO)は、78カ国で合計1万8000人を超える感染者が確認されたと発表した。大半が欧州だが、我が国でも7月28日現在、2名の感染が確認されている。7月23日、WHOはサル痘の感染拡大を、最大警戒水準の緊急事態であるPublic Health Emergency of International Concern (PHEIC)に相当すると認定した。

順調に進む治療薬・ワクチンの手配

 サル痘の研究の進展は急速だ。7月21日、英国の研究者たちは、4月27日~6月24日までに16カ国43カ所で診断されたサル痘感染者528人の臨床経過をまとめた研究を米『ニューイングランド医学誌』オンライン版で発表した。

 この研究によれば、98%が同性愛か両性愛の男性で、75%は白人、41%がHIVに感染していた。感染者の年齢中央値は38歳で、ほとんどが性交渉で感染したと考えられた。

 臨床症状は、これまでに報告されていたものとは違っていた。従来、サル痘は感染後1~2週間の潜伏期を経て発熱・悪寒・リンパ節腫脹などで発症し、その後、水疱などの発疹が生じ、2~4週間で自然治癒した。ところが今回の流行では、発熱は顕著でなく、95%の感染者は発疹で医療機関を受診し、73%は肛門や性器に病変を認めた。リンパ節腫脹が確認されたのは56%だった。87%の感染者が入院したが、全例が回復した。32人中29人で、精液からサル痘ウイルスが確認されており、性交渉による感染の可能性を支持した。なぜ、 従来と今回の流行の臨床像が異なるか、その理由はわかっていない。

 治療薬の手配も順調だ。日本国内では未承認だが、米シガ・テクノロジーズ社が開発したテコビリマット、米チメリックス社のテムベクサなどの治療薬が臨床応用されている。5月24日、英リバプール大学の研究チームが、英『ランセット感染症版』にサル痘感染者7人の経過を発表したが、このうちの1人にはテコビリマットが投与され、治療開始から48時間でウイルスの排出が止まり、10日間で退院できたという。5人はPCR検査陽性が長引き、3週間以上の入院・隔離を要したのとは対照的だった。

 テコビリマットは、世界中から注文が殺到している。ロイターによると、7月13日、シガ・テクノロジーズ社は、約2800万ドル分の注文を受けたという。そのうち2600万ドル分は、以前から取引のあるカナダからの注文で、残りは欧州とアジアパシフィックのそれぞれ一地域からという。

 ワクチンの手配も進んでいる。デンマークのババリアン・ノルディック社が開発したインバネックス(欧州の商品名、米国ではジネオス)、米エマージェント・バイオソリューションズ社のACAM2000などの天然痘ワクチンは、サル痘にも有効だ。米疾病対策センター(CDC)によれば、アフリカで実施された臨床試験で、ワクチンにより少なくとも85%は感染を予防できたという。ワクチンが有り難いのは、サル痘は潜伏期間が長いため、感染してから4日間以内に接種すれば発症を防ぐこともできる点だ。欧州各国は、ババリアン・ノルディック社にインバネックスを発注している。

クローズアップされる天然痘ワクチン未接種の世代

 世界の科学誌はサル痘対策に大きく紙面を割いている。そして、コロナ対策の失敗の反省から、国際協調の必要性を強調している。例えば、米科学誌『サイエンス』は、7月19日に公開された社説「21世紀のサル痘に立ち向かう」で、今後、数カ月にわたり、ワクチンの大幅な不足が予想される中、如何にして公平に各国、地域に配分するか、特に感染のハイリスク群である男性同性愛者に届けるかが重要と論じている。ちなみに男性同性愛者は、人口の1〜3%らしい。

 さらに『サイエンス』誌が重視するのは、サル痘ウイルスが蔓延しているアフリカ11カ国での対策を強化することだ。サル痘ウイルスは人獣共通感染症で、多くは齧歯類を介してヒトに感染する。この地域で、ヒトと齧歯類との接触を減らすように対策を強化するとともに、40歳以下の住民3億2700万人への接種を急がねばならない。

 なぜ40歳以下かと言えば、この世代は天然痘ワクチン(種痘)の予防接種を受けていないからだ。1980年5月、WHOは天然痘の根絶を宣言し、この前後から世界中が種痘の接種を中止した。我が国では、1976年を最後に種痘に定期接種は中止されている。この結果、今年45歳になる世代より下は種痘を受けていない。

 天然痘ワクチンは、サル痘ウイルスにも有効だ。そして、効果は長期間にわたって持続する。2005年9月、オレゴン健康科学大学の研究チームは、天然痘ワクチンによるサル痘予防効果は30年以上持続するという研究結果を英『ネイチャー・メディスン』誌に発表している。7月22日、厚生労働省がKMバイオロジクス(熊本市)が製造する天然痘ワクチンについて、サル痘への適応を拡大する方向で審議することを発表したのも、このような経緯があるからだ。これが『サイエンス』誌が、アフリカの一部の国の40歳以下に早急にワクチン接種を勧める理由だ。そのためには、コロナワクチンの獲得競争で起こったように、先進国はワクチンを独り占めしてはいけないというわけだ。

バイオテロ1件あたりの死者・負傷者数は爆弾テロの6倍以上

『サイエンス』誌は触れなかったが、サル痘対策で国際協調が必要な場面はもう一つある。それはバイオテロ対策だ。アフリカの風土病にすぎないサル痘に対して、世界各国が速やかに対応できたのは、各国がバイオテロ対策の準備を進めてきたからだ。

 例えば2005年には、米陸軍感染症医学研究所(USAMRIID)の研究チームが、米『臨床感染症』誌に「サル痘の再来:罹患率、診断、対策」という論文を発表し、その中で、「1980年代に天然痘ワクチン接種が中止されたことにより、サル痘ウイルスに対しての免疫が低下している。このウイルスがバイオテロの手段として利用される可能性がある」と論じている。

 さらに2017年12月、米CDCの研究チームが『ウイルス』誌に発表した論文には、「この研究は天然痘ウイルスによるバイオテロに対処するために行ったもので、(実験に利用できない)天然痘ウイルスの代わりにサル痘ウイルスを利用した」と記されている。世界は、サル痘より感染力、毒性が強い天然痘ウイルスによるバイオテロを心配しているのだ。前出のKM バイオロジクスが、天然痘ワクチンを製造・備蓄していたのも、厚労省からバイオテロ対策を依頼されていたからだ。

 今回、サル痘は世界的流行を引き起こしているし、WHOが天然痘根絶を宣言しても、天然痘ウイルスが無くなったわけではない。米国のCDCとロシアの国立ウイルス学・生物工学研究センター(ベクター)の2施設に保管されている。このような施設から流出する可能性は否定できない。2019年9月には、ロシアのベクターでガスボンベ爆発による火災が起こっているし、ロシアがウクライナで生物兵器を使う可能性は否定できない。

 現在、世界の医学界は、この問題を真剣に議論している。例えば、米ハーバード大学の研究チームは、2月6日、米『救急医学』誌オンライン版に「バイオテロ:テロに用いられた生物製剤の分析」という論文を発表している。彼らは1970~2019年に発生したバイオテロ33件を調査した。この期間に起こったテロ事件全体の0.02%にすぎないが、その影響力は大きい。それは被害規模が大きいからだ。バイオテロ1件あたりの死者・負傷者数は24.8件で、爆弾テロの平均(4.0件)の6倍以上だ。

 特に死者・負傷者数が多いのは炭疽菌テロで、1件あたり28.8件だ。炭疽菌テロは33件のバイオテロのうち、20件を占める。このうちの1件は、1993年にオウム真理教が起こした亀戸異臭事件だ。オウム真理教の技術が未熟だったため、幸い被害者はいなかったが、炭疽菌による無差別テロだったことが判明している。天然痘ウイルスの感染力は炭疽菌の比ではない。もし、このウイルスを用いたバイオテロが起これば、どの程度の被害が出るか予想できない。

自衛隊の高度な関与も必要に

 この問題を論じる上で無視できないのは、近年の合成生物学の飛躍的進歩だ。特に、2020年にノーベル化学賞を受賞した仏のエマニュエル・シャルパンティエ博士、米のジェニファー・ダウドナ博士が開発したCRISPR-Cas9技術を用いれば、高価な装置を用いることなく、誰でも自宅で遺伝子を編集できる。テロリストたちは、誰からも監視されることなく、天然痘ウイルスを改変することも可能だ。

 今回のサル痘ウイルスの流行は、現状のバイオテロ予防体制が機能していないことを曝け出してしまった。サル痘ウイルスは大型のDNAウイルスで、RNAウイルスであるコロナのように簡単に変異しない。サル痘ウイルスが拡散したのは、感染力が強い変異株ができて、監視の目をかい潜ったのではない。感染が拡大するまで、誰も注目しなかっただけなのだ。監視体制の見直しは喫緊の課題だ。

 ところが、我が国で、この問題が議論されることはない。政府が準備中の「健康危機管理庁(仮称)」では、国立感染症研究所と国立国際医療研究センターを統合した「日本型CDC」にばかり注目が集まる。いずれも厚労省傘下の医系技官が仕切る組織で、彼らにはバイオテロに対応する実力はない。海外でバイオテロ対策は、軍医や軍の研究者たちと、感染症や微生物学の研究者の共同作業だ。不幸な歴史もあり、日本では自衛隊関係者の影は薄い。岸田文雄総理には、従来の縦割りを打破し、オールジャパンのバイオテロ防止体制を構築していただきたい。

カテゴリ: 医療・サイエンス
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執筆者プロフィール
上昌広(かみまさひろ) 特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。 1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。
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