やっぱり残るは食欲 (17)

無沙汰の便り

執筆者:阿川佐和子 2023年12月14日
カテゴリ: カルチャー
エリア: アジア
揚げたてサクサクのトンカツにはかないません(写真はイメージです)

 近所に少し前から気になっているトンカツ屋がある。まだ入ったことはない。でも、お昼どきにその店の前を通ると、必ずと言っていいほど行列ができている。観光客風の人たちではない。いかにも近所のオフィスから昼休みに溢れ出てきた人種とおぼしき方々ばかり。

 ある日、行列のできている正面入り口とは別に、横の勝手口らしき扉が開け放たれていた。その扉の中をこっそり覗くと、店内の小さなテーブル前に座ってトンカツを頬張る年配紳士の姿が目に入った。箸でトンカツ一切れを持ち上げて、左手にはご飯茶碗を持ち、今、まさに黄金色に輝く揚げたてのトンカツを口に投入するところである。

 あ、口に入った。咀嚼している。どんどん顔から力が抜けていく。なんとシアワセそうな表情であることか。その顔に惹きつけられ、しばし動けなくなった。

 「おいしそ~」

 私も行列の最後尾に並び、トンカツを食べたい衝動に駆られたが、いやいや、寄り道をしていたら仕事に遅刻する。なんとか自制心を働かせた。

 以来、私は出かける時間が昼どきと重なると、少し大回りになっても、そのトンカツ屋の横を通ることにしている。そばを抜けるだけで揚げ物のいい匂いが鼻先に届く。きっといい油を使っているのだろう。もし今度、この店に入ったら何を注文しよう。ヒレかロースか。やっぱりヒレだろうな。千切りキャベツは山盛りついてくるだろうか。キャベツのおかわりもあったらいい。ソースはいくつか種類があるだろうか。レモンはついてくるかしら。テイクアウトができたらいいけれど。そうだ、今度ためしにテイクアウトできるか聞いてみよう。妄想は膨らむばかりで、日々の雑務に追われてまだ実現には至っていない。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子(あがわさわこ) 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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