年末恒例の外務省の外交文書公開が2023年12月20日に行われ、今回は1992年を中心に、宮澤喜一内閣時代の外交文書約6500ページが解禁された。
文書公開は1万ページを超えることもあるが、今回はやや少なめで、日米首脳交渉や天皇訪中をめぐる日中関係が中心だった。筆者が関心のあったソ連崩壊直後の日露関係は、一切公開されなかった。組織防衛に走る外務省は、自らに不都合な文書を解禁しなかったかにみえる。
しかし、日米・日中間のやりとりで、北方領土交渉をめぐる意外な事実も判明した。そこから、日本外交の致命的欠陥が見えてくる。
北方領土交渉の記録は非開示
戦後79年を経て振り返ると、北方領土問題を日本に有利な形で解決する千載一遇のチャンスは、1992年の一時期だけだった。新生ロシアのボリス・エリツィン大統領(以下、肩書は当時)はスターリン外交を否定し、「北方領土問題を必ず解決する」と表明していた。92年の日本の国内総生産(GDP)は世界の16%を占め、IMF(国際通貨基金)の統計では、ロシアの55倍。筆者は当時、記者としてモスクワにいたが、ロシア社会には、最先端の先進国・日本の援助を受けられるなら、領土割譲は仕方がないという雰囲気さえあった。
92年には、日露交渉で様々な動きがあった。
▽1月31日 ニューヨークで宮澤・エリツィン会談
▽3月21日 東京での日露外相会談で、ロシア側が秘密提案
▽5月2-6日 渡辺美智雄外相訪露
▽7月6-8日 ミュンヘンG7(主要7カ国)サミット
▽9月2日 渡辺外相、モスクワでエリツィンと会談。
▽9月9日 エリツィン、訪日延期を発表
1月の首脳会談で日露は好スタートを切り、エリツィンは「平和条約締結のプロセスを始めたい」と切り出し、「法と正義」の原則による解決を主張。宮澤は記者団に、北方領土問題は「潮時」と発言した。
3月のロシア側秘密提案は、①歯舞・色丹の返還協議②国後・択捉の帰属協議――を並行して進め、合意したら平和条約締結という内容で、非公式とはいえ、ソ連・ロシアが戦後提示した最も融和的提案だった。しかし、日本側は「4島返還ではない」として却下した。
やがて、ロシアの市場経済改革の混乱で政権と保守派の対立が深まり、エリツィン外交も次第に保守化する中、9月の訪日をキャンセルし、対話機運は遠のいた。
その後の日露関係は曲折をたどり、ロシア政府はウクライナ侵攻で制裁した日本を「非友好国」とみなして平和条約交渉を中止。セルゲイ・ラブロフ外相は昨年12月、北方領土問題は「終わった」と宣言した。
日本側はなぜ絶好の機会を逃したのか、ロシア側とどのようなやりとりがあったのか。元島民だけでなく、誰もが知りたい点だが、情報公開はなかった。
外務省の情報公開は1976年に始まり、民主党政権時代から外部識者の審査を経て公表されているが、基本的に外務官僚が統括する。「現在の外交交渉に影響を与える部分は非公開」という名目で、領土問題に関する文書も非開示のようだ。
しかし、前回の1991年版では、ミハイル・ゴルバチョフ・ソ連大統領の訪日に伴う海部俊樹首相との6回の首脳会談の議事録が、黒塗りが多いものの全面公開された。そこには、情報公開の恣意的な運用がみられ、外務省にとって不都合な文書は公開しない方針と捉えられても仕方ない。
米国では、中央情報局(CIA)関係を除いて、政府に都合の悪い文書も「30年ルール」に沿って全面公開しており、日本の情報公開は遅れている。
「エリツィンは酒の飲みすぎ」――ブッシュのロシア観
それでも、公開された日米関係文書から、ジョージ・ブッシュ(父)政権が冷戦終結を踏まえ、北方領土問題の解決を側面支援した実態が浮かび上がる。
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