一年間のガザ危機が見せた三つの構造的変化

執筆者:篠田英朗 2024年10月4日
エリア: 中東 その他
一年に及ぶガザ危機は、「二国家解決」「アラブの大義」「自由民主主義の勝利」という3つの概念を大きく揺るがせている[イスラエル軍の空爆による犠牲者に祈りを捧げるパレスチナ人=2024年10月2日、ガザ地区南部ハンユニス](C)EPA=時事
ガザ危機発生後の一年間で、それ以前から始まっていた国際社会の構造的変化がはっきりと可視化された。パレスチナ問題の解決策としての「二国家解決」は破綻しており、「アラブの大義」は求心力を失いイランやトルコといった非アラブのイスラム諸国が存在感を増した。さらにガザ危機は、欧州におけるロシア・ウクライナ戦争とともに、冷戦終焉後の世界で語られ続けてきた「自由民主主義の勝利」という物語の説得力を決定的に失わせている。

 昨年10月7日のハマスのテロ攻撃から始まった現在のガザ危機が、すでに一年続いている。私は、昨年の10・7攻撃の直後、数日のうちに、『欧米諸国は罠にはまったか』(https://agora-web.jp/archives/231010210826.html)、『ハマスの「イスラエル攻撃」で泥沼の構図に引きずりこまれた欧米諸国と「日本の取るべき立場」』(https://gendai.media/articles/-/117602)、さらには「欧米諸国が「ガザ危機」ではまった罠――「10・7は9・11ではない」と捉えた国際社会」(https://www.fsight.jp/articles/-/50193)、といった文章を書いた。私が予見した「泥沼」の構図は、一年たって、さらに深刻なものになっている。ガザ危機の終わりが見えないまま、戦火がレバノン、イエメン、シリア、そしてイランへと広がり続けている。

 私は、「泥沼」の警告をした次に、起こりうる事態について「三つのシナリオ」を提示する文章を書いた(『行方の見えない「ガザ危機」で、これから起こりうる「3つの主要なシナリオ」』(https://gendai.media/articles/-/120015)「三つのシナリオ」と呼んだのは、イスラエルの完全勝利、泥沼の消耗戦、国際介入の展開、のことであった。第一のシナリオが、日本国内の「識者」の方々に配慮したものだが、実際には実現可能性は低かった。イスラエルの完全勝利の見通しはつかないままだ。第三の国際介入のシナリオは、出口の見えない袋小路の中で、なお未来を構想していくための可能性のことであったが、その可能性も乏しいままにとどまっている。私が最も確率が高いと考えていたのが、第二の泥沼の消耗戦のシナリオだった。

 本稿では、現下のガザ危機が勃発してから一年がたった機会を捉え、あらためてガザ危機がもたらしている大きな構造的な変化を、大局的な視野から論じ直す。パレスチナ紛争、中東の地域的な政治情勢、そしてグローバルな国際情勢の三つのレベルで、変化の潮流を捉えることを試みる。

「二国家解決」の破綻――失われた西岸とガザの一体性

 まずパレスチナ紛争に特化した視点で見てみると、国際社会の標準的な考え方となっているはずの「二国家解決」が、ほとんど破綻していることを、指摘せざるをえない。それは最も明白には、イスラエルがガザを破壊しつくし、ヨルダン川西岸での入植活動を加速化させている中で、パレスチナ国家の基盤が失われている事実によって、示されている。

 だがさらに深く見てみるならば、パレスチナ国家として一体性を持っているはずのガザとヨルダン川西岸の二つが、明らかに異なる運命を辿っていることが、日々明らかになってきていることもわかる。イスラエルは、西岸においては入植地の拡大、ガザにおいては「天井のない監獄」の封鎖体制、という二つの異なる占領政策を、2005年以来、長期にわたって採用し続けていた。これによって、すでに西岸とガザは、異なる運命を歩み始めていた。西岸におけるパレスチナ自治政府の形骸化した統治体制と、ガザにおけるハマスの広範な浸透力を持った統治体制は、その象徴的な一面であった。

 2023年10月以降、ガザでは、苛烈なイスラエルの軍事作戦による破壊と荒廃が進み、少なくとも4万人以上という犠牲者が生まれた。他方、西岸では、大規模な軍事作戦が展開しているわけではない代わりに、非人道的な入植活動がさらに一層広がった。イスラエルの占領体制による惨禍という点では共通していても、実際の社会の実情はさらに異なってきている。

 もともと西岸はヨルダンに隣接する内陸の丘陵地としての文化的背景を持っているのに対して、ガザはエジプトに隣接する地中海に面した沿岸の土地柄の風土を持っている。両者を結び付けているのは、パレスチナ人としてのアイデンティティであるが、それは多分に「ナクバ」で故郷を追放されたうえに、第三次中東戦争でイスラエルの占領下に置かれたという難民の苦難の政治的な記憶によって成り立っている。この歴史的記憶の共通性がなくなることはないが、新たな政治事件が起こるたびに、別々の記憶が上書きされていくことは否めない。

 現在のガザ危機が終わった時、果たしてガザの人々と西岸の人々が、パレスチナ国家の一体性をどのように取り戻していけるのかは、かなり難しい問いとなる。まずは政治統治体制の面で一体性が失われているのだが、社会アイデンティティの面でもそうなりかねない状況が広がっている。

 だがそれでは「二国家解決」案以外に、パレスチナ問題を収拾していくための和平の構想はありうるのか。これもやはり難しい問いであり、大きなジレンマだ。

「アラブの大義」の崩壊――非アラブ・イスラム圏の影響力拡大

 視点を中東全体の広域に向けてみよう。ガザ危機をめぐって劇的に示されてしまったのが、「アラブの大義」の言説の崩壊である。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
篠田英朗(しのだひであき) 東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程、ロンドン大学(LSE)国際関係学部博士課程修了。国際関係学博士(Ph.D.)。国際政治学、平和構築論が専門。学生時代より難民救援活動に従事し、クルド難民(イラン)、ソマリア難民(ジブチ)への緊急援助のための短期ボランティアとして派遣された経験を持つ。日本政府から派遣されて、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で投票所責任者として勤務。現在も調査等の目的で世界各地を飛び回る。ロンドン大学およびキール大学非常勤講師、広島大学平和科学研究センター助手、助教授、准教授を経て、2013年から現職。2007年より2024年まで外務省委託「平和構築人材育成事業」/「平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業」を、実施団体責任者として指揮。著書に『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)、『集団的自衛権の思想史―憲法九条と日米安保』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(いずれもちくま新書)、『憲法学の病』(新潮新書)、『パートナーシップ国際平和活動』(勁草書房)など、日本語・英語で多数。
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