中東―危機の震源を読む (69)

エジプト革命日録

 エジプトでは、1月25日に最初の大規模デモが勃発してから3週間目に入った。ムバーラク政権は大統領自身を後景に退けさせスレイマーン副大統領を表に立てながら、大統領即時辞任の要求は拒否し、小刻みに譲歩案を示しながら時間稼ぎを図っている。それによって鎮静化することも予想されたデモは、2月8日には拡大・深化する様相を呈し、抗議運動の恒久化・制度化が予想される、新たな段階に入った。  民主化が実質的なものになるかどうかは、今後の展開を待つしかない。しかし禁じられていた政権批判を人々が口々に叫び、大統領そのものを批判の対象にし、政府に批判の正当性を認めさせたことで、エジプト政治が不可逆的に変わったことは確かである。ムバーラク政権側がそれなりに巧みな延命策を取っているのも確かだが、従来の反体制勢力封じ込めの延長線上の施策を続け、一定の譲歩を約束するだけでは、デモは収まらないものと見られる。ムバーラク政権は急速に政権が崩壊することがエジプトと中東地域の不安定と混乱を生む、と国民や米国に対して脅しともとれる発言を繰り返しているが、国民の多数が政権主導の移行プロセスに信を置かず、改革が進まない場合、むしろムバーラク政権の居座りそのものがこの地域の不安定要素として米国から再定義される可能性がある。  ムバーラク政権が国民から信頼を得ず、打つ手が功を奏さなければ、既存の憲法の枠組みでの民主化移行よりも、憲法を廃し、全く新たな憲法を起草する新体制樹立の方向に進んでいくかもしれない。その場合は1年といった長期間にわたって、軍と群衆が正面から衝突することは避けながら、力を誇示し圧力を加える中で、政治闘争が繰り広げられていくだろう。そこから有力な指導者と組織が現れるのを待ち、求心力のある国家理念が再定義されていくのを待つしかない。  革命の初期段階の山場は「100万人行進」が行なわれた2月1日だっただろう。数字は諸説あるが、各地で数十万人単位の群衆が抗議行動に出た。カイロでは少なくとも数十万人の群衆がタハリール広場とその付近に集まった。この日、もし当初の呼びかけ通りに群衆が大統領宮殿に向かっていれば、軍は発砲するか、群衆の圧力に負けて大統領宮殿を明け渡すしかなかっただろう。その場合は30年続いた政権が転覆するだけでなく、1952年以来の体制が崩壊する民衆革命が一気に進んだはずだ。しかしここで群衆が大統領宮殿に向かわなかったことで、かつてルーマニアのチャウシェスク政権が打倒され大統領夫妻が処刑された時のような、群衆による独裁者の打倒という展開にはならなかった。  2月2日の、タハリール広場への政権支持派の暴徒の乱入を経て、2月4日の「決別の金曜日」のデモでも大統領辞任を拒否した政権は、細かな妥協と威嚇を繰り出しながら、延命策を学びつつある。米オバマ政権の「秩序ある移行」を求める立場のうち、「秩序」の部分を最大限強調し、手ごろな野党・反体制派を取り込もうとしている。2月6日にはムスリム同胞団を含む既成野党を対話の場に付かせることに成功し、反体制運動の分断を図った。ここまでは、政権側が態勢を立て直す段階と言ってよかった。  しかし、2月8日にはさらに新たな群衆がカイロのタハリール広場に押し寄せただけでなく、同時並行的に議会や官庁や新聞社といった政府機関・公営企業への大規模な抗議行動が生じた。明らかに、事態は一部の若者の組織する運動というよりは、それに触発されて、幅広い年齢層と階層から、現政権に対する不信任の表明が組織的になされる段階に入ったと言ってよいだろう。また、治安組織を率いて非民主的な統治を指揮してきたスレイマーン副大統領が、今度は民主化移行を支える、という政権の主張に多くの国民が信を置かないとしても全く不思議ではない。政権の施策に実効性がないということが明らかになれば、移行プロセスの担い手や手続きも、新たに作り直さなければならなくなる。  革命という政治・社会現象が、衛星テレビとツイッターで実況中継されながら目の前で展開するというのは、世界史上にも稀な事態である。前回の寄稿【崩壊危機のエジプトを読む】ではエジプト現地時間1月30日昼(日本時間同日夕方)まで事態の推移と見通しを示しておいた。その後の展開の軌跡を、日毎に重要な出来事を抜き出して記して、浮き立たせてみたい。その際に、(1)ムバーラク政権側の失地回復の動き、(2)それに対する米国の反応、(3)抗議行動の組織化と仲介者の出現、という3種類の流れが交錯するものとして見て行くと良いだろう。

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執筆者プロフィール
池内恵(いけうちさとし) 東京大学先端科学技術研究センター グローバルセキュリティ・宗教分野教授。1973年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授を経て、2008年10月より東京大学先端科学技術研究センター准教授、2018年10月より現職。著書に『現代アラブの社会思想』(講談社現代新書、2002年大佛次郎論壇賞)、『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2009年サントリー学芸賞)、『イスラーム国の衝撃』(文春新書)、『【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』 (新潮選書)、 本誌連載をまとめた『中東 危機の震源を読む』(同)などがある。個人ブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝」(http://ikeuchisatoshi.com/)。
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