やっぱり残るは食欲 (4)

レアもの

執筆者:阿川佐和子 2022年11月13日
カテゴリ: カルチャー
エリア: アジア
「日本一高くておいしい」と評判のホルトハウス房子さんのチーズケーキ、一度でいいから食べてみたいですね(写真はイメージです)(C)Vladislav Noseek / stock.adobe.com

 チーズケーキを焼いた。

 何年ぶりのことだろう。

 鎌倉にお住まいの料理研究家ホルトハウス房子さんのレシピである。チーズケーキにもさまざま種類があるけれど、ホルトハウス房子さんのケーキはレアタイプだ。一応、オーブンで焼くが、味は、濃厚なクリームチーズをたっぷり使ったレアチーズケーキそのものである。

 このチーズケーキに私はたしか十代の終わりに出合った。当時、雑誌「ミセス」にはホルトハウス房子さんがちょくちょく登場した。鮮明に覚えているのは、見開きのページいっぱいに掲載されたホルトハウス家のガーデンパーティの写真である。大きな木製のテーブルに巨大な肉の塊(たぶんローストビーフ)や色とりどりの野菜料理、そしてお洒落な前菜、果物、デザート、花瓶に飾られた花などが所狭しと並べられ、テーブルのまわりにはグラス片手に楽しそうに歓談する男女数人。そのお仲間が本当の友だちか、雑誌用に集められたモデルさんたちかは判断できないが、それにしてもまるで気取った様子がなく、カジュアルでお洒落で、なにより思い切り楽しそうである。写真中央に映っているショートヘアの女性がホルトハウス房子さんご本人らしい。少し釣り気味のピリッとした眉。ふっくらとした頬。ほどよく日焼けした肌。いかにも好奇心旺盛そうなクリクリとした瞳。豪快に笑った口元から覗く白い歯。なんてステキな人だろう。健康と明るさと潔さがバランス良く整った大人の魅力に溢れている。

 私はその写真に釘付けになった。記事を読むと、ホルトハウス房子さんはアメリカ人と結婚し、各国を旅しながら覚えた料理を上手にアレンジし、料理研究家として活躍している女性だとわかる。

 たちまち私の理想の女性像となった。まもなく私は彼女の料理本……白地に赤くて可愛らしい模様がデザインされた表紙の『私のおもてなし料理』を購入し、料理のレシピというより、その本全体から醸し出されるムードに魅了された。いつか、私もアメリカ人とは言わないが、無知な娘に広い世界を知らしめてくれるステキな男性と恋をして結婚し、この本に出てくるような粋な主婦になってやる! こんな家に住み、こんなお洒落な生活をしてみたい!

 無謀な夢を抱いたから婚期が激しく遅れたのかもしれない。それはさておき、チーズケーキである。

 ホルトハウス房子さんのチーズケーキの作り方をその本で知ったか、はたまた雑誌「ミセス」に載っていたか、そのあたりの記憶が曖昧ではあるが、その頃、頻繁に作っていたのはたしかである。なぜ頻繁に焼いたか。もちろん評判がよろしかったからである。父をはじめとする家族にも友だちにもおおいに喜ばれ、「また食べたい」とせがまれた。

 二十代になり、親しくお付き合いのあった近所のご婦人から電話をいただいた。

 「今度、拙宅にお客様をお招きするの。その日、サワコちゃんのあのおいしいと評判のチーズケーキを焼いて持ってきてほしいんですけど、お願いできるかしら。そのかわり、ウチでご飯を食べていって」

 格別の注文をいただいた。もちろん! 喜んでお持ちします! 快諾し、私はいつもの手順でチーズケーキを焼き、そのお宅へお持ちした。そこには私より少し歳下のお子さんが二人いて、普段から仲良くしていたこともあり、来客があるとはいえ気軽な気持で赴いた。きっと大人たちが集う小さなホームパーティなのだろう。チーズケーキを披露したあとは、その家の子供たちと奥の部屋へ引っ込んで遊んでいればいい。

 ところが伺ってみれば、お客様は一人だけだった。しかも若い男性である。どうも様子が違う。子供たちと過ごすつもりだったのに、私はもっぱらそのお客様の話し相手に駆り出された。しかも、話題はもっぱら私のことである。サワコちゃんはお菓子作りが上手だけど、お料理もお母様の薫陶を受けてお上手なんですよ。そうそう、音楽はどんなものがお好き? 今度、この方とクラシックコンサートにいらしたらいいわ。この方はクラシック音楽にとてもお詳しいの。

 しだいに状況が見えてきた。もしかしてこれはお見合いか? 薄々気がついた頃から極度の緊張に襲われた。その晩、ご馳走になった料理がどんなものであったかまったく覚えていない。私が焼いたチーズケーキの出来がどうだったかの記憶もぷっつり切れている。そしてそのお見合いの顛末は……? ほほほ。

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執筆者プロフィール
阿川佐和子(あがわさわこ) 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』(新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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