LIBOR不正操作事件に巻き込まれた日本人元トレーダーの「逆転人生」(上)

執筆者:有吉功一 2023年8月21日
タグ: イギリス 日本
エリア: ヨーロッパ
ウォール街から始まったリーマン・ショックに対し、LIBOR不正事件の衝撃はロンドンの金融街から広がった(C)AFP=時事
2012年6月に発覚したLIBOR不正操作事件は国際金融市場を揺るがした。30人近くに上った被告人には司法取引に応じて有罪答弁を行う者が相次いだが、冤罪を確信していたある日本人の元トレーダーは敢えて別の形で汚名を雪(すす)ぐ道を選ぶ。今年7月に起訴取り下げを掴み取るまでの過酷な日々と、これまで明かすことのなかった胸中を、取材を続けた有吉功一氏がレポートする。(後編はこちらからお読みいただけます)

 

 2012年6月、リーマン・ショックのほとぼりも冷めやらない国際金融市場を新たに揺るがしたロンドン銀行間取引金利(LIBOR、ライボー)不正操作事件。その渦中に巻き込まれた多数の元トレーダーの中に、日本人がいることはほとんど知られていない。その人物は不正に関与したとして米国で起訴され、日本から出るに出られず、約10年にわたって仕事でも私生活でもさまざまな制約を強いられた。家族も当然、多大な犠牲を余儀なくされた。

 しかし法律事務所を通じて米司法省との間で粘り強く話し合いを重ねた結果、このほど、起訴の全面的な取り下げを勝ち取った。ビジネス分野の刑事事件で、米司法省を相手に裁判を通じて無罪判決を勝ち取るのはそれほど珍しいことではないが、日本人が司法取引など相手の土俵に上がることなく、水面下での交渉を通じて「勝ち」を収めるのは極めて異例だ。

芋づる式に摘発された関係者

 LIBORは銀行同士が期間1日から1年までの貸し借りをする際の金利指標だ。ドル、ユーロ、円など5通貨について、それぞれ7つの期間の金利が毎営業日、算出・公表されていた。原型は1969年、イラン向けのシンジケートローン(協調融資)に使われたドル金利決定方式で、規制が緩やかな英ロンドン市場で誕生し、運営は当初、民間業界団体の英銀行家協会(BBA)が担っていた。

 しかし、2007~08年の金融危機時、LIBOR算出のため各銀行が提示する金利が低めに操作されていた疑いが浮上。信用力の低下を覆い隠そうとする行為だった。LIBORは住宅ローンなど各種ローンから金融派生商品(デリバティブ)に至るまで、幅広い金融取引の参照金利として利用されていた。一時は200兆ドル(現在のレートで約2京8000兆円)以上の取引がLIBORに連動していたとされる。

 そうした取引の基準となる参照金利がわずかに操作されるだけで、金融市場や世界中の消費者に大きな打撃が及びかねない。各国当局は2012年、本格的な捜査に着手した。

「一般市民は誰でもいいから戦犯を見つけろと叫び続けていた」

 ニューヨークタイムズの金融担当記者であるデイヴィッド・エンリッチは著書『スパイダー・ネットワーク 金融史に残る詐欺事件――LIBORスキャンダルの全内幕』で、当時の状況をこう書いている。

 捜査当局としては、金融危機の「戦犯」追及の中で「スケープゴート」を探し出し、厳罰を科さなければ、一般大衆に留飲を下げてもらえないという事情があった。捜査当局は「ほえない番犬」(英誌エコノミスト)なのか、といった批判もくすぶり始めていた。

 捜査過程で浮上したのが、トレーダーが自主申告するLIBOR提示金利を自らや仲間内のデリバティブ取引に有利に働くよう恣意(しい)的に操作していた疑惑だった。米英などの当局は重い腰を上げ、欧米銀行のトレーダーやブローカーを中心にクモの巣(スパイダー・ネットワーク)のように張り巡らされていた不正の輪の摘発に乗り出した。 

 銀行は最初から当局に恭順姿勢を示した。最高経営責任者(CEO)などトップの刑事責任追及を回避するためもあり、当局と司法取引を結び、捜査に協力した。それでも金銭的な処罰は巨額だった。2012年から16年にかけて金融機関が支払った金銭的ペナルティーは、欧州連合(EU)欧州委員会による制裁金も含めると総額1兆5000億円以上に達した。

 不正操作に関与したとみられるトレーダーも芋づる式に摘発された。その一部はやはり個人として司法取引を結び、処罰の減免と引き換えに捜査に協力した。当局は捜査協力を通じて固めていった証拠を武器に、さらに摘発を続け、最終的に米英両国で30人近くが訴追された。トレーダーやブローカーは金融機関内の電子メールやチャット、電話を無警戒に使っており、不正行為を疑われる痕跡が大量に残されていた。捜査当局にとっては宝の山だった。

どん底に突き落とされた日本人花形トレーダー

「モトムラです」

「大将、どうも。すみません、○○証券のイケタニです」

「はい、はい」

「ヘッジファンド販売担当者も行きたいと言っています」

「ヘッジファンド販売担当者も行きたい?」

「はい」

「ん……ああ、ゲームですか」

「そうです」

「ああ、了解です。問題ないです」

 この電話でのやり取りに登場する「モトムラ」とは、オランダの銀行大手ラボバンク東京支店のトレーダーだった本村哲也氏(51)だ。本村氏は取引先との親睦を深めるため、イベントを企画することがあった。その中の1つに、サバイバルゲームがあった。有志を募って成田空港周辺のフィールドに出掛けたことも何度かあった。会話の中に出てくる「ゲーム」とは、サバイバルゲームを指す。

 このやり取りは、取引先の金融機関の担当者からの電話に出た本村氏が、最初は何について話しているか分からなかったものの、途中で自身が主催するサバイバルゲーム大会のことだと気付くまでを抜き出したものだ。会社の電話を使っていたため、通話記録がそのまま残っていた。元々は日本語での会話で、それを米司法省が不正操作の証拠として使うため英訳。抜粋は、それを筆者が再度、日本語に訳し戻したものだ。

 このくだりの後にLIBORをめぐるやり取りも出てくるが、本村氏は一般的な説明をしただけだった。しかし米司法省の検察官には、文脈から類推して、「行きたい(wants to go)」「ゲーム(the game)」といった言い回しが、不正操作と関わりのある怪しい言葉に映ったようだ。……

カテゴリ: 経済・ビジネス 社会
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執筆者プロフィール
有吉功一(ありよしこういち) ジャーナリスト。1960年埼玉県生まれ。大阪大卒。84年、東レ入社。88年に時事通信社に転職。94~98年ロンドン支局、2006~10年ブリュッセル支局勤務。主に国際経済ニュースをカバー。20年、時事通信社を定年退職。いちジャーナリストとして再出発。著書に『巨大通貨ユーロの野望』(時事通信社、共著)、『国際カルテル-狙われる日本企業』(同時代社)。
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