「人質」から「遮断」へ――ウクライナの穀物輸出をめぐるプーチンの戦術転換

執筆者:服部倫卓 2023年8月25日
「黒海穀物イニシアティブ」期限切れ当日の17日未明に発生したクリミア橋での爆破事件で、プーチン政権は引くに引けなくなったか (C)AFP=時事
ロシアは「黒海穀物イニシアティブ」の期限延長に土壇場で合意を繰り返してきた。ロシア自身も巧妙に同イニシアティブを利用しており、また中国はその直接的な受益者だった。7月17日に発表した離脱は、当日未明のウクライナ軍によるクリミア大橋攻撃で、ロシアの瀬戸際戦術が破綻した結果と見るべきだろう。ただし、以後のロシアはウクライナの穀物輸出を「人質」にして欧米を揺さぶる戦術から、これを遮断する方針へ転換したと考えられる。

 

 ロシア外務省は7月17日、黒海を通じたウクライナ産農産物の輸出に関する国際合意「黒海穀物イニシアティブ」の延長に反対するとの声明を発表した。過去1年間、ウクライナにとって希望の光となってきた輸送路が、ついに閉ざされたことになる。

 思えば、2022年2月24日にロシアがウクライナへの全面軍事侵攻を開始して以降、ウクライナの農産物輸出はロシアの妨害により翻弄され続けてきた。

顕著な回復を見せていたウクライナの穀物輸出

 侵攻開始に伴い、ロシア軍が黒海を封鎖したことから、ウクライナの港湾から農産物を積み出せなくなり、2000万トン以上の食料が港に滞貨する事態となった。2021年までウクライナの穀物および植物油の輸出は、ほぼ全面的にオデーサ港、ピヴデンヌィ港、チョルノモルシク港、ミコライウ港から行われていたわけで、その大動脈が塞がれたのだ。

 難局に直面し、ウクライナも代替輸出ルートの開拓を急いだ。まず、農産物をルーマニアやブルガリアの港まで陸路で運んで、そこから輸出することが試みられた。また、レニ、ベルジャンシクというウクライナ側のドナウ川港湾で船積みし、ドナウ川を遡ってルーマニア領に入り、ルーマニア側のドナウ~黒海運河で黒海に運び出すことも試みられた。さらに、2022年7月にウクライナが黒海に浮かぶ蛇島を奪還したことによって、それと向かい合わせの位置にあるウクライナ側のドナウ~黒海運河も使用可能になった。しかし、いかんせんこれらの河川港は小規模であり、河川を航行できる船も小型のものに限られ、輸送量には限界があった。

 また、陸路で欧州周辺国に運ぶにしても、ウクライナ鉄道のレール幅は旧ソ連の広軌、欧州は標準軌なので、国境で積み替えの手間がかかるる。ウクライナ鉄道の老朽化、EU側の鉄道および港のキャパシティ不足というネックもある。こうしたことから、ウクライナ港湾に滞貨する大量の農産物の出荷はなかなか捗らなかった。

 ウクライナはロシアと並んで北アフリカや中近東向けの食料輸出に重要な役割を果たしており、このままでは各所で食料危機や政情不安が起こりかねないと懸念された。翻って、ウクライナにとっても農業は輸出の稼ぎ頭であり、何としてでも活路を開く必要があった。

 状況を打開するため、国連とトルコの仲介による交渉が続けられ、それが実を結んだ。2022年7月22日にトルコ・イスタンブールにおいて、国連、トルコ、ウクライナ、ロシアの4者が、黒海を通じたウクライナからの穀物輸出の再開につき合意に達したものである。オデーサ港、チョルノモルシク港、ピウデンヌィ港の3箇所が輸出港として指定された。この合意は「黒海穀物イニシアティブ」と呼ばれることになった。

 実際にこのスキームによる農産物輸出が始まると、かなり期待に近い成果を挙げた。図1に見るとおり、2022年8月初めに同イニシアティブが動き出して以降、ウクライナの穀物・植物油輸出は顕著に回復していった。

図1 ウクライナのルート別の農産物輸出動向
 

アンモニア輸出をめぐるロシアの思惑

 ロシアが2022年7月の時点で黒海穀物イニシアティブに応じた動機を端的に言えば、ウクライナの農産物輸出再開に協力することで、その見返りとして、ロシア産の穀物および肥料を輸出する上でのお墨付きと便宜を、国連から取り付けたかったということだろう。欧米がロシア産穀物・肥料を輸入禁止の対象とはしていなかったにもかかわらず、現実には傭船、保険、送金の不安や、事業者のオーバーコンプライアンスが原因で、ロシア産品の輸出が滞っていたからである。

 実際7月22日には、ウクライナの穀物輸出に関する合意書とは別立てで、ロシア産穀物・肥料の輸出に関する合意書も国連事務局とロシアの間で調印されている。ロシア側は、ウクライナ産穀物に関する合意書と、ロシア産穀物・肥料に関する合意書は、一体のものであるとの立場をとり、後者が然るべく前進しなければ、前者からも離脱するという構えを見せるようになる。

 ここで一つ見逃せないのが、アンモニア輸出をめぐる攻防である。黒海穀物イニシアティブの合意書では、「本イニシアティブの目的は、オデーサ港、チョルノモルシク港、ピウデンヌィ港からの穀物および関連食料、アンモニアを含む肥料を輸出するための安全な航行を促すことにある」とうたわれている。普通に考えれば、ウクライナ産農産物・肥料輸出を保証する措置と解釈できよう。ただ、実際には、2014年のウクライナ政変以降、ロシアから有利な条件で天然ガスが入ってこなくなり、それを原料とするアンモニアおよび窒素肥料のウクライナからの輸出は、最近は微々たる量になっていた。

 他方、ロシア・サマラ州のトリヤッチアゾト工場を起点に、ウクライナ・オデーサ州のピウデンヌィ港のターミナルに至る「トリヤッチ~オデーサ・アンモニアパイプライン」の存在が知られている。世界最長のこの化学品パイプラインは、デタント時代の米ソ協力プロジェクトとして建設され、ソ連崩壊を経て今日まで引き継がれているものだ。この遺産が、2022年2月までは、ロシアのアンモニア輸出の重要ルートとなってきたのである。そして、ロシアによる侵攻開始後、ウクライナがパイプラインの稼働を停止し、それが原因でロシアのアンモニア輸出が激減しているとして、ロシア側が稼働再開を求めていた経緯があった。

 そう考えると、イスタンブール合意に「アンモニアを含む肥料」という文言が盛り込まれたのは、ロシアが仕掛けた罠だったのではないかという疑いが生じる。実際、その後のロシアは、黒海穀物イニシアティブにより、あたかもウクライナがロシア産アンモニアの輸送を請け負う義務を負ったかのような立場をとり、揺さぶりの材料の一つとして利用していくのである。

グローバルサウスにアピールするプーチンの欺瞞

 他方、ウクライナ侵攻後のプーチン政権は、食料の問題を、欧米およびウクライナを批判し、逆に自国の誠意を強調するためのプロパガンダの題材として活用するようになる。そこには、グローバルサウスに向けたアピールという狙いが込められていた。

 早くも、2022年6月17日のサンクトペテルブルグ国際経済フォーラムにおけるプーチン演説に、その姿勢は表れていた。この席でウラジーミル・プーチン大統領は、今日起きている食料を含む資源価格の高騰は、欧米の野放図な金融緩和の所産であり、ロシアの軍事作戦のせいにするのは責任転嫁だと批判。ロシアはアフリカや中近東など、飢餓に直面している国を優先しつつ、世界に食料を供給していく役割を果たすと表明した。

 9月7日の東方経済フォーラムでの演説でプーチンは、ウクライナから輸出されている穀物のほとんどすべてが、イスタンブール合意の精神に反し、途上国・最貧国ではなくEU(欧州連合)諸国に向かっており、最貧国支援を目的とした国連世界食糧計画に沿って船積みされたのは87隻のうちわずか2隻だと批判した。

 2023年になり、3月20日に「多極世界におけるロシアとアフリカ」という会議で演説したプーチン大統領は、もしもウクライナ農産物輸出に関する黒海穀物イニシアティブが延長されない場合には、ロシアはアフリカ諸国に食料を無償で供給する用意があると大見得を切った。

図2 黒海穀物イニシアティブによるウクライナ農産物の輸出先

 

 このようにプーチンは、ウクライナの食料輸出が豊かな国にばかり向かっており、最貧国にはほとんど届いていないと訴えた。そして、そうした現実がある以上、黒海穀物イニシアティブは延長する意味がないという主張を強めていった。

 7月17日にロシアが最終的に合意離脱を発表した際にも、その主張が繰り返された。黒海穀物イニシアティブで輸送された農産物のうち、70%以上がEUをはじめとする高所得および高中所得国に向かっており、エチオピア、イエメン、アフガニスタン、スーダン、ソマリアに代表される最貧国の比率は3%以下にすぎないというのが、ロシア外務省の指摘であった。

 それでは、ロシアの主張は正鵠を射ているだろうか? 

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カテゴリ: 政治 経済・ビジネス
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執筆者プロフィール
服部倫卓(はっとりみちたか) 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授。1964年静岡県生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士後期課程(歴史地域文化学専攻・スラブ社会文化論)修了(学術博士)。在ベラルーシ共和国日本国大使館専門調査員などを経て、2020年4月に一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所所長。2022年10月から現職。著書に『不思議の国ベラルーシ――ナショナリズムから遠く離れて』(岩波書店)、『歴史の狭間のベラルーシ』『ウクライナ・ベラルーシ・モルドバ経済図説』 (ともにユーラシア・ブックレット)、共著に『ベラルーシを知るための50章』『ウクライナを知るための65章』(ともに明石書店)など。
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