『素顔のヴィルトゥオーソ』第2回 ヴァイオリニスト大谷康子

執筆者:フォーサイト編集部 2018年9月5日
エリア: アジア
愛用しているピエトロ・グァルネリの音色を聴かせてくれた

 

「私、おしゃべりをはじめると止まらなくなるんです」

 そう言って彼女が楽しそうに話し始めた瞬間、その場の空気が明るく華やかになった。ヴァイオリニストの大谷康子さん。今年デビュー43周年を迎え、ソリストとして国内外でリサイタルを行うほか、数々の著名なオーケストラと共演を重ねるなど、第一線で活躍している。そして21年間、オーケストラのコンサートマスター(後にソロ・コンサートマスター)を務めた。

 日本を代表する実力派なのに、堅苦しさや気難しさなどまったく感じさせず、むしろ誰からも親しまれる雰囲気を漂わせる。「歌うヴァイオリン」と評される演奏さながらに、その場の空気を彩る。まさに「彩る」という表現がピッタリなのだ。

 7月2日、意外なことに初めてとなる著書『ヴァイオリニスト今日も走る!』(KADOKAWA)を刊行。執筆にまつわるエピソードや書けなかったことなどをたっぷり語ってもらった。

「動詞が入っている方が先生らしい」

カバー撮影のために特別に走ったわけではなく、これがいつもの光景

 彼女ほどのキャリアの持ち主なら、もっと早くに本を出版していても不思議ではない。が、現在もソリストとしての活動の他、母校の東京藝術大学の講師に東京音楽大学の教授、BSジャパン『おんがく交差点』(毎週土曜朝8時~)の司会や自治体の文化協会理事長から文化大使などなど、「超マルチタスク」。それゆえ、なかなか踏み出せなかったという。

「昔から『1日24時間じゃ足りない! 36時間は欲しい!』と思うくらいいろいろなことを同時並行でしてきたものですから、今まで本を書く時間を取ることができませんでした。今回、思い切って書いてみたものの、完成するまでずいぶんと苦労しました」

 と、大谷さん。

「朝から生徒たちにレッスンをしつつ夜は自分の演奏会、その間に会議という日もあれば、番組の収録に丸々1日かかることもあります。タクシーで移動するときは左手で携帯電話に連絡用のメールを入力しつつ、右手で膝の上のスマホの文章を直していました。最初にあれもこれも書きたいことが山ほどあって詰め込みすぎちゃって、出版社の方に多すぎますと言われて……。削るのも至難の業だったのです。学校でも生徒たちまで心配してくれて、『先生、もうちょっと休んでください』と言われるのですが、『あなたたちもレッスンしてって言うじゃない!』という感じで(笑)」

 著書タイトルの『今日も走る!』は、そんな大谷さんの日常、生き方、人生そのもの。同時に、彼女の演奏会を聴きにコンサートホールに行かれた方ならば誰もが知っている「十八番(おはこ)」をも思い起こさせる。

 彼女はしばしばコンサートのアンコールで、客席後方の入り口からサプライズ登場し、そのまま客席の通路を歩きながら観客ひとりひとりの間近で演奏する。モンティの『チャルダッシュ』などはその代表曲で、彼女の代名詞とも言えるほど。ステージから客席に広がる計算されたホールの響きとはまた違った音色を肌で感じてもらい、その指使いも間近で見てもらうことでより音楽を、ヴァイオリンを楽しんで、親しんでもらいたいとの思いからだ。その思いを届けるために、プログラムの演目が終わるやこっそり舞台裏から通路に降り、一目散にロビーを「疾走」して入り口へ回るのだ。

「タイトルにいくつか候補があって悩んでいた時、東京音大の生徒たちに意見を求めたら、ある男子学生が、『先生に分別臭いようなタイトルは合わないよ。動詞が入っている方が先生らしい』と言ったのです。その瞬間、私の友人が提案してくれた動詞の候補『走る』、これしかない!と思いました。私、いろいろな方から、会うと元気になるとよく言われるのです。しばらく会っていなかった友人から突然、電話が来て、『別に用事はないのだけど、声を聞くと元気になるかなと思ってかけた』と言われたりする。そういう自分のエネルギーみたいなものを伝えられたら良いなと思っていたところへ、『動詞』。ビビッときたので、これに決めたのです。

8歳でアメリカへ演奏旅行

大谷さんの話を聞いていると、こちらまで楽しくなってくる

 愛知県名古屋市で育った大谷さんは、3歳でヴァイオリンを始めた。ヴァイオリニストの鈴木鎮一氏が戦後に創設、全国に普及した「スズキ・メソード(才能教育研究会)」に所属する西崎信二氏に師事し、才能が開花。8歳の時に第1回「テン・チルドレン」に選抜される。全国のスズキ・メソードの生徒の中から10人が選ばれ、海外へ演奏旅行に行く制度だ。

「アメリカを3週間回ったのですが、この時の経験はもの凄く大きかったですね。おぼろげながら、音楽は世界が1つになれるものなのだと感じました。その後、小学校高学年になるにつれて、本気でプロを目指すようになりました。当時は国立大学の附属小へ通っていたので、同級生と一緒に附属中へ進むか、家のすぐ近くにある名古屋市立中へ進むか、選択を迫られたのです。それで、ヴァイオリンで藝高(東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校)に行きたいという思いから、猛練習する時間を確保するために市立中進学を決めました。ヴァイオリニストに憧れたのは、ドレスを着たかったからという女の子らしい思いもありましたけど(笑)」 

 志望通り藝高に合格し、そのまま藝大に進んだ大谷さん。藝大といえば、一昨年にベストセラーとなった小社刊の『最後の秘境 藝大―天才たちのカオスな日常―』(二宮敦人著)が思い起こされる。同書によれば卒業生の多くが行方不明になるというが、やはり藝大生には変わった人が多かったのか。

「美術学部の生徒さんたちのことは、羨ましいくらい自由だなあ、良い意味で変わっているところがあるなあと思っていました。同じ藝大でも美術学部と音楽学部は道路を隔てた反対側にあるので、美術学部は『違う世界』という印象でしたね。でも、私は今、公益財団法人練馬区文化振興協会の理事長をさせていただいているのですが、今年から練馬区立美術館の館長を務めてくださっている秋元雄史先生は、藝大の美術学部出身で、現在は藝大の美術館の館長を兼任されています。お会いしてみたら、同じところで育ったというシンパシーというか、通じ合うものがありました」

ヴァイオリンケースの上で手紙

 かく言う大谷さん自身、相当“変わった”面がある。

「さっきまで打ち合わせでお会いしていた方が、実はまだお互いに面識がなかった頃、私を地下鉄の車内で見かけたことがあったそうなのです」

 と、続けてこんなエピソードを披露してくれた。

「私、揺れる電車内で、立ったまま手紙を書いていたそうです。ヴァイオリンのケースを立てて、その上で。ええ、そういうことは実は昔からいまもしょっちゅうやっているのです。周りの方は、変なことをやっている人がいるなあと思って見ていたのでしょうね。それから、随分昔のことですが、ある時、ある新聞のコラムに『すごく面白い人を見た』という話が載っていました。『電車の中でヴァイオリンのケースを床に立てて、その上で手紙を書いている人がいた』と。たまたまそのコラムを読んで、あれ? これ私のことだ! って(笑)」

 大谷さんは学生時代から大忙しだった。藝大大学院の修士課程に在籍していた頃から、母校の藝高で非常勤講師として教えていた。

「上野の藝大では学生で、当時、藝高があった御茶ノ水に行くと先生。その両方をこなしつつ、各地でリサイタルや、小中学校に出向きオーケストラのコンマス(コンサートマスター=オーケストラの演奏とりまとめ役。一般には第1ヴァイオリンの首席奏者)を務めたり、ソロで弾いたり。今思えばどうやって時間を工面していたのだろうという感じです」

 しかし、この時の試練が思わぬものをもたらしてくれた。

「プロになってからソリストとコンマスの2足の草鞋状態になりましたが、すでにこの頃からやっていたわけです。当時は1カ月に100曲どころじゃない数を弾いていました。それも、クラシックからポピュラー、映画音楽、現代音楽まで、ありとあらゆるジャンルの曲を、です。そのおかげで知らず知らずのうちに『引き出し』が増え、今の私の財産になっています。『おんがく交差点』で様々なジャンルの曲を弾くことに違和感がないのは、この頃の経験があるからでしょう」

 春風亭小朝師匠と司会を務めているこの人気番組では毎回、ゲストとして歌手や演奏家、たとえばジャズシンガーやピアニスト、チェリスト、尺八奏者などなど幅広いジャンルの音楽家が登場する。

 ちなみに、2017年9月13日から16日にかけて全5回でアップロードした「バンドゥーラの音色にのせて」という短期集中連載に登場したウクライナの古楽器「バンドゥーラ」奏者・歌手のカテリーナさんも、その直前、番組にゲストとして招かれていた。

 彼女も含め、番組では大谷さんが実際にその場でゲストとはじめてセッションして様々な曲を演奏することも多いそうだ。日本には素晴らしいヴァイオリニストが大勢いるが、色んな曲をパッと捉えて弾ける人はそうそういないのではないか。

「この番組をやらせていただいているおかげで、本当にすばらしい音楽家の方々と出会えて、素敵な曲を一緒に演奏させていただける。とても楽しい経験ですし、番組を続けさせていただけて幸せだなあと思っています」

1公演に4曲のヴァイオリン協奏曲

前代未聞の快挙をもう1度

 もちろん、楽しいばかりではなく相当な苦労もあるはずだが、驚かされることはまだある。『おんがく交差点』の収録は朝から晩まで丸一日かかるのだが、全く疲れを感じないそうなのだ。

「いつもは朝9時に始まって、だいたい夜10時くらいに終わるのですが、先日、最短記録が出て、夜8時半に終わったのです」

 最短記録でも、実に連続12時間弱!

「収録の間は、小朝師匠の隣に座って司会としてゲストの方とお話させていただいている時以外はほとんど立ちっぱなし。でも、全然苦になりません。最初は心配してくれたスタッフもスポンサーさんも、私が大丈夫らしいと分かると、もっと入れちゃえ! という感じで(笑)、収録本数が4本から5本になったこともあります」

 疲れ知らずという面は昔からだそうで、

「オーケストラの一員として演奏している時も、他のメンバーが休憩時間にソファーでぐったりする中、私1人だけルンルンでみんなに話しかけてまわるものだから『うるさいよ!』って怒られたりして(笑)。自分だけが疲れを感じないのだって分かってからは、ちょっとは大人しくしてましょ、って思うようになりましたけどね(笑)」

 そのエネルギーを象徴するのが、2度も成し遂げた快挙だ。

「1988年に1公演でメンデルスゾーン、ストラヴィンスキー、ラロの3大ヴァイオリンコンチェルト(協奏曲)を弾いた時、女性では初めてということで『珍しい』と言われたのです。3年前の2015年は、私がデビュー40周年を迎えた記念イヤーでしたから、もう1曲増やしてヴィヴァルディ、メンデルスゾーン、プロコフィエフ、ブルッフと4曲弾かせていただいた。さすがにひと晩でコンチェルトを4曲というのは“前代未聞”と言われたのですが、私自身は、とにかくヴァイオリンを弾き続けられることが大好きで大好きで本当に大好きで、それが幸せなことだと感じているので、大変だなんて全然思わなかったのです。そうしたら、今度は3年前の演奏を聞きに来てくださっていた大阪のオーケストラが、私にもっとたくさん弾かせようと、昼に4曲、夜に4曲と、1日2公演行うことになりました(笑)」

 1公演でコンチェルトを4曲弾くことがいかに尋常ならざる試みか。通常1公演につき1曲が普通で、特別な場合でもせいぜい2曲。それを4曲、しかも1日2公演も行うというのは「前代未聞」どころではない。試みの壮大さは言葉で表現しづらいため、ぜひご自身の耳で会場にてお確かめいただきたい。

 その大阪交響楽団によるコンサート(9月29日に大阪市内の「ザ・シンフォニーホール」にて)の曲目は、3年前のものから少し変わる。ヴィヴァルディ、メンデルスゾーン、ブルッフの「ヴァイオリンコンチェルト」に、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」が選ばれた。大谷さんがこれまでに3000回以上も弾いてきたこれまた代名詞のような曲で、誰もが一度は聞いたことがあるだろう。流浪の民「ロマ(ジプシー)」をテーマに、異国情緒や哀感を感じさせるドラマチックな旋律になっている。

大切にしている井上ひさし氏の言葉

 大谷さんは本当に楽しそうにヴァイオリンを弾く。しかし、その点で実は複雑な心境もある。

「よく“楽しそうに弾く”と言われるのですが、嬉しい反面、誤解されると困るなという思いもあるのです」

 音楽に対して誤解をしてほしくないという思いであえて言わせてもらいたいと、こう続ける。

「私は楽しいものを楽しく、悲しいものを悲しく伝えるのは当たり前だと思うのです。でも、最近は楽しい曲でも深刻な曲でも、眉間に皺を寄せながら難しそうに弾くと『本格派の演奏』と評価される傾向がある。楽しそうに弾くと軽く見られ、『楽しい人』や『サービス精神が旺盛な人』という評価で終わってしまうこともある。たとえばチャイコフスキーを演奏するとき、誰が何秒速く弾けるかというスピードを競うようなところがあって、疾走しているように演奏すると『凄い天才がいる』という記事が出たりする。本来は演奏が速いか遅いかではなく、作曲家が込めた曲への思い、演奏家の表現したい音楽がきちんと伝わることが良いわけで、速いだけが才能ではないし、指が回ることだけが音楽でもない。そういうテクニックの向こう側にこそ音楽があると思うのですが……」

 そういう思いを踏まえたうえで、大谷さんは信念を貫き、演奏する。実はここに、大谷さんのモットーが隠れている。それは、本にも引用された次の言葉だ。

「むずかしいことをやさしく 

 やさしいことをふかく

 ふかいことをおもしろく

 おもしろいことをまじめに

 まじめなことをゆかいに

 ゆかいなことはあくまでもゆかいに」

 劇団「こまつ座」を主宰した劇作家の井上ひさし氏の言葉だ。

「この言葉は音楽や芸術だけでなく、すべてに通じる本質だと思います。私は曲の真髄、本質を伝えることができれば、人の心を動かすだけでなく、社会や世界を変えるくらいの演奏ができると思っています。本でも紹介しましたが、私の演奏を聴きに来てくださった方で、脳梗塞で右手が麻痺して不自由になっていたのに、感動してどうしても拍手をしたいと念じたところ、手が動いたということがあったのです。本当に、音楽にはそういう力がある。私が学生時代から今日まで走り続けてきたのは、そういう音楽の力で、聴いてくださった方の心を動かし、社会、世界をよりよいものにしたいという一心からです。本を書いたのは、そういう思いを皆さんに知っていただきたかったのです」

 優しさも深さも真面目さも併せ持っているからこそ、大谷さんの演奏には「彩り」があるのだろう。

 

【コンサート情報】

大阪交響楽団 第104回名曲コンサート ドイツ・ヴァイオリン協奏曲の系譜

9月29日(土)

第1部:13:30 開演 / 第2部:17:00 開演

会場:ザ・シンフォニーホール(大阪府)

出演者:原田慶太楼(指揮)、大谷康子(ヴァイオリン)

曲目:ヴィヴァルディ/メンデルスゾーン/ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲、ツィゴイネルワイゼン

問合せ先:大阪交響楽団 072-226-5522

 

第11回平日の午後のコンサート ヴァイオリンの世界へ

10月1日(月)14:00開演

会場:東京オペラシティ コンサートホール(東京都)

出演者:渡邊一正(指揮とお話)、大谷康子(ヴァイオリン)

東京フィルハーモニー交響楽団 

曲目:モンティ:チャールダーシュ

マスネ:タイスの瞑想曲

J.S.バッハ:G線上のアリア(管弦楽組曲第3番より第2曲「アリア」)

ベートーヴェン:交響曲第7番 ほか

問合せ先:東京フィルチケットサービス 03-5353-9522 

 

どりーむコンサートVol.108 大いなるロシアンロマン ~チャイコフスキー&ラフマニノフ~

2019年1月20日(日)14:00開演

会場:府中の森芸術劇場 どりーむホール(東京都)

出演者:山田和樹(指揮)、日本フィルハーモニー交響楽団、大谷康子(ヴァイオリン)

曲目:チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35

ラフマニノフ:交響曲第2番ホ短調 作品27

問合せ先:チケットふちゅう 042-333-9999

【大谷康子公式HP】

カテゴリ: カルチャー
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