2022年3月2日、JR常磐線の
福島県富岡町夜の森地区。2011年3月11日の東日本大震災の翌日、東京電力福島第一原発事故のため町民約1万6000人が避難して以後、町域で最後まで残った帰還困難区域だった。今年1月26日、国から復興拠点(特定復興再生拠点区域)とされた同地区の約390ヘクタールが立ち入り制限を解除され、除染の上、来春から居住できるようになるという。
桜並木で有名な夜の森公園があり、町が来月初めに催す「桜まつり」のため、並木の道はきれいに舗装し直された。が、周辺の家々は解体され、広大な更地に姿を変え、約1600世帯が軒を連ねたという町並みを想像することもできない。コロナ禍で首都圏など他地域の人との交流も減る中で、被災地は歴史の記憶をどうやって未来に伝承できるのか。往時の風景が消えた跡に新たに移り住む人と何を共有できるのか。原発事故から12年目の「危機」が見えた。
異なる立場の住民がつくる町
夜ノ森駅の次の駅が富岡。11年前の津波で被災した後、町の中心地には、復興事業で駅前広場や新しい住宅地が造成された。町営住宅や民間アパートが立ち並ぶが、歩く人影はほとんどない。フードコートのある商業施設「さくらモール」だけが、女性の買い物客や企業、工事の関係者らの食事客でにぎわう。その一角に「富岡町3・11を語る会(以下、語る会)」の事務所がある。
語る会の発足は震災から4年後の2015年。原発事故の発生後、町民は内陸の郡山市にある「ビッグパレットふくしま」(コンベンション施設)などで避難生活を送り、仮設住宅などへ分散した。富岡町社会福祉協議会が避難中の支援と交流のため設けた「おだがいさまセンター」の一事業として、町民の体験伝承をする「語り人(べ)」を募ったのが始まりだ。
事務所の壁に「人口12,023 居住人口1,833」と、今年2月1日現在の町勢データが貼られている。震災前から約4000人が減り、実際の居住者は「帰還した町民が約1000人、残る半々が町外からの移住者と、(福島第一原発の)廃炉作業や除染、解体などの工事関係者。異なる背景の住民が今の富岡をつくっています」と代表の青木淑子さん(74)が語った。
「立場は全く違うけれど、この町へのそれぞれの考えを理解し、思いを語り合えないと、復興にはならない。そのための場と機会をつくることが私たちの役目です」
現在、富岡町に帰還した住民ら約20人が「語り人」として活動する。観光や視察、研修などで来町するツアーのバスに同乗し、依頼のある会場や企業にも出張し、町と町民の被災体験を語る(会では「口演」という)。住民自身が外と交流することも新しい町づくりの道だ。
2年前にJR常磐線も全線再開したが、同時に、「コロナ禍が人の流れを断絶させた」と青木さん。年間100件を超えたツアー同乗の「口演」はこの2年の間、20~30件に激減。一時期はゼロが続いた。「東京から人は来ない、バリケードが解けても戻る人がいないのでは、との不安もある。でも大事なのは、ここに一緒にいる人々がどんな町を望んでいるかということ」「語り人は、擦り切れたレコードのように過去を語る人でなく、体験を未来につなげる人のこと。未曽有の原子力災害の伝承を何のためにやるのかを、私たちは見つめ直したい」
若者こそ伝承の危機を超える希望
青木さんらは、今月21日に上演する朗読劇の稽古の追い込み中だ。『生きている 生きてゆく~ビッグパレットふくしま避難所記~』という題そのままに、原発事故から逃れ、多くの町民の避難先となった郡山市の福島県産業交流館(ビッグパレット)での5カ月間の生活を、ありのままに書き留められた人々のつぶやきから再現し、追体験してもらう劇。上演会場も同じ施設という。
応募した演者13人には体験者のほか、若い世代、原発事故後に移住した新町民もいる。山根麻衣子さんは横浜市出身。8年前に双葉町の復興支援員を志願し、3年前から富岡町民となってまちづくり会社で働き、地元のニュースも発信している。「『こんな思いをするのは、私たちでこりごり』という台詞もあり、私も追体験する一人。同じ町に住みながら、原発事故の当事者でないことに壁を感じてきたが、その壁を乗り越える挑戦です」と話す。
出演者も聴衆も「伝承」に参加する朗読劇。その主催も語る会で、避難所で支援者の一人だった青木さんが演出、脚本を担当している。「体験の伝承は当事者だけが担うものでなく、若い世代に広まるべきもの。今、語り人の育成教室にも力を入れています」。地元富岡町で再開した小学校では、月曜の放課後に全校生30人が参加する基礎編の「表現塾」の講師も務める。
コロナ禍で県外のツアー客が激減した中で、予期せぬ、うれしい変化もあった。「県内の中学校、高校の教育旅行が、たくさん来てくれるようになった。昨年秋には20~30校も。コロナのために県外に出られなくなった事情もあって」と青木さん。文部科学省が「地域課題の解決」を高校の学びの目標に掲げたことも追い風だ。「ここには原子力災害という地域課題が山のようにあるから」。
「語り人」の体験を聴いた若者からは、「かわいそう、気の毒」「当事者でなければ分からない」という大人の反応でなく、「自分たちは何をしたらいいか、何ができるか」と、疑問や不安が返ってくるという。「大人がやったことの責任を僕らに丸投げするんですか、とズバリ問われることもある」と青木さん。「彼らは『学びの種』を真剣に持ち帰ってくれる。語る会にも、小学生で避難体験をした20代の『語り人』が2人いて、話がすぐに通じ合う」
それぞれに「学びの種」を育てて、いつか富岡町に戻ってくれる日もあろう若者たちに、青木さんは「伝承」の危機を乗り越える希望の光を見ている。
コロナ禍でも途絶えなかった旅館の被災地ツアー
富岡から常磐線の上り普通電車で約1時間。浜通りの名湯、いわき市湯本温泉に1695(元禄8)年創業の「古滝屋」がある。16代目主人の里見喜生さん(53)を訪ねた。取材は2度目だ。里見さんは福島第一原発事故が起きた後、NPO法人「ふよう土2100」を設立。原発周辺の町々から避難した住民や障害児の家族を支援する一方、同ホテルに泊まる支援者らを被災地へのスタディーツアーに案内する活動を始めた(2017年7月4日の記事『「被災地へ3500人をガイド:いわき市湯本の「老舗ホテル主人」が伝え続ける「原発事故」』参照)。
原発事故の風評で湯本温泉への客はほぼ途絶え、多くの旅館が作業員宿舎となって経営をつなぐ中、古滝屋は全国から支援者らを受け入れ、被災地につなぐ拠点となり続けた。
「自分たちも原発事故で苦労をしたが、被災地の人は家 も、帰るふるさともすべて失った。元禄から続く旅館を受け継ぎ、重みは分かっている。代々のものを失うことを言葉では表せない。原子力災害から目をそらさず、ごまかさず、きちんと向き合わなくては、と考えた。双葉の人たちの話をたくさん聴き、それを伝える役目を少しでも担えたらと思う」
前回の取材で聴いた里見さんの言葉。原発事故の被災者の苦難を「わが事」と学び、全国に伝えてもらおう――。そんな使命を担う活動も、その後のコロナ禍で湯本温泉の客が一時、8割減と伝えられた中、危機にあるのではないか。そう問うと、「うちは団体予約のキャンセルとは無縁で、お客がリピーターになって知人友人を引率してくれたり、大学の社会学ゼミ一行などの長期宿泊が増えたりし、ツアー参加者も延べ約6000人になりました」。
手づくりの原子力災害考証館
「原子力災害考証館」。館内のこんな表示のある一室に案内された。もともと宴会場だった部屋で、棚には福島第一原発事故が起きて以来の出版物や新聞、地元発行の資料類、原発事故訴訟の意見陳述書などが並ぶ。壁には、知人の写真家中筋純さんが撮った被災地・浪江町の無人となった商店街と、4年後に解体され更地となった風景を並べたパノラマ写真がある。原発事故後10年を迎えた昨年3月、里見さんが開いた原子力災害のミュージアムだ。
構想を温めたきっかけは、2013年に訪ねた水俣市の「水俣病歴史考証館」。裁判で闘った患者の「怨」の旗、実験用の猫を飼った小屋などの実物展示に衝撃を受け、「私が避難先で出会った被災者一人ひとりの訴えが重なった」と里見さん。「小さな記事の切り抜きでも、原発事故の恐怖と不安に手探りした個人の思いの表現であり、伝えるべき記録なのです」。
考証館の部屋の真ん中に、海辺の真っ白い流木が組まれた展示がある。小さな女の子の写真、ピンクのジャンパー、黒い上着、水色のランドセルが流木の隙間に見える。あの日の津波で亡くなった大熊町の小学生、木村汐凪さん=当時7つ=の遺品なのだ。行方不明のまま、父親の紀夫さん(56)が5年越しで捜索を続け、小さな遺骨と再会した。紀夫さんは、ある席で偶然隣り合わせた里見さんから考証館の話を聴き、展示を希望したという。津波の翌日には原発事故で町の全住民が避難となり、捜索を尽くせず、「生きていたかもしれないとの思いに苦しんだそうです。その酷さは原子力災害ゆえ」と里見さん。流木の展示の一番下には発見時そのまま、遺骨がくるまった汐凪さんのネックウォーマーが置かれている。
考証館には今、資料提供の希望も寄せられている。「撮りためた被災地のスチール写真を展示できないか」と東京の男性から連絡があった。里見さんを訪ねてきて、「周りの誰にも言えず、原発事故を日常の会話に出せなかった」と初めて安心したように胸の思いを語ったそうだ。「福島から遠くの他者でも、ここに来れば、誰でも語り部 になれる。集って聴く人もいる。人と人がつながることこそ伝承。そんな場に育てていきたい」。里見さんの願いだ。