オスマン帝国は「偉大な祖先」か「恥ずべき歴史」か? トルコを二分する歴史認識問題

執筆者:小笠原弘幸 2022年4月28日
タグ: トルコ
エリア: アジア ヨーロッパ
来年のトルコ大統領選を見据え、オスマン帝国の継承とイスラム的価値観の尊重を国民にアピールするエルドアン大統領

トルコ共和国100年の歴史において、オスマン帝国の評価は振り子のように揺れてきた。近年は「偉大な祖先」という肯定的評価が定着し、悪徳と退廃の象徴とされた「ハレム」(日本では「ハーレム」とも表記)も、帝国中枢を支える精巧な官僚組織だったと評価される。『ハレム――女官と宦官たちの世界』を刊行した小笠原弘幸・九州大学准教授がその背景を解説する。

オスマン帝国を否定して成立したトルコ共和国

 2022年は、オスマン帝国滅亡100年に当たる。およそ600年の歴史を持ち、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸に広がる領土を有したオスマン帝国は、イスラム世界の歴史上もっとも重要な国家のひとつである。ゆえに、帝国の主要な後継国家であるトルコ共和国の人々は、この帝国を自分たちの偉大な祖先として誇りに思ってきた――と、読者は思われるかもしれない。

 しかし、話はそう簡単ではない。トルコ共和国100年の歴史において、オスマン帝国の評価は振り子のように揺れ動いてきた。そしてその動きは、トルコ共和国がこれまで歩んできた歴史における政治や宗教の変容と、シンクロしているのだ。現在のトルコを率いるレジェプ・タイイプ・エルドアン大統領の施策も、その例外ではない。本稿では、トルコ共和国の人々がオスマン帝国という存在をどのように評価してきたか、共和国100年の歴史をたどりつつ論じてみたい。

 オスマン帝国は、なぜ滅亡したのか。その背景と理由を端的に語るのは難しいが、直接的な事実だけ述べれば、第一次世界大戦に敗北し、その後に起こったトルコ革命によって滅亡した、ということになろう。

 1914年に勃発した第一次世界大戦に、オスマン帝国はドイツ側に立って参戦したが、1918年に休戦協定を結び敗北した。帝都イスタンブルは、イギリスを中心とした連合国の管理下に置かれることになる。1920年、イギリスの後押しを受けたギリシア王国軍がエーゲ海を渡りアナトリアに上陸すると、トルコ世論は沸騰した。列強であればまだしも、かつてオスマン帝国の臣民にすぎなかったギリシアに国土を蹂躙されるのは、大きな衝撃だったのである。オスマン政府とスルタン(君主)は、列強の意に従い、この侵攻を黙認したが、各地で独自にレジスタンスが組織された。

 このレジスタンス勢力を糾合し、アンカラ政府を新たに打ち建てたのが、ムスタファ・ケマル、のちにトルコ共和国初代大統領となるアタテュルクであった。ケマル率いるアンカラ政府と国民軍は、苦戦のすえギリシア軍を撃退し、列強もアンカラ政府を承認するにいたる。1922年、議会はスルタン制を廃止することを決議し、ここに帝国は滅びた。トルコ共和国の建国が宣言されるのは、翌1923年である。

 こうした建国の歴史からわかるように、トルコ共和国は、オスマン帝国を滅ぼして成立した国家だった。共和国の元勲たちにとって、帝国政府とスルタンは、祖国をギリシアに売り渡そうとした裏切り者なのだった。さらに、新生トルコ共和国の国づくりにおいても、帝国とその国教であったイスラムは旧弊の象徴とされ、否定すべき存在と位置付けられた。カリフ制廃止とオスマン王族の追放、アラビア文字廃止とラテン・アルファベットの導入、トルコ帽の廃止と公の場における女性のヴェール着用禁止は、人々に「もはやオスマン帝国やイスラムの時代ではない」という強いメッセージを与えた。

 歴史認識においても、それは同様であった。共和国の公定歴史学によれば、トルコ人の歴史はオスマン帝国やイスラムの成立をはるかにさかのぼる。トルコ人は古代の中央アジアに大帝国を築き上げ、のちに世界に広がって各地の文明の祖となったと主張された。オスマン帝国やイスラムは、すべての面を否定されていたわけではなかったが、帝国末期におけるオスマン政府の悪徳は、とくに強調された。

 こうして建国期のトルコ共和国では、オスマン帝国やイスラムの影響を可能な限り排除し、世俗的かつ西洋的な国づくりがすすめられた。オスマン帝国は、新しく生まれた「世俗的かつ近代的な」トルコ共和国のネガとして扱われたのだった。

オスマン帝国の遺産とイスラム的価値観の「復活」

 しかし、帝国の遺産がトルコのいたるところに遍在しているのは、否定できない事実である。特にイスタンブルにおいては、大建築家ミマール・スィナンの残した数々のモスクをはじめ、帝国時代の様々な建築物が立ち並ぶ。こうした遺産を、すべて無視することは不可能であった。

 また、イスラムも、トルコの民衆のなかに深く根付いていた。世俗化を進めたのは少数のエリート層が中心であり、国民のほとんどは、素朴な信仰心を持つイスラム教徒であった。彼らは、アタテュルクを始めとした元勲の偉業は認めていたものの、慣れ親しんできたイスラム的な価値観が排斥されるという事態に、戸惑いを隠せなかったのである。

 それでも、強力なカリスマを持つアタテュルクの存命中は、「西洋派・世俗派のエリート層」と「素朴にイスラムを信仰する民衆」のあいだの亀裂は、覆い隠されていた。また、1938年のアタテュルク死後も、第二次世界大戦が勃発するという国際状況のなかで、政府に対する不満は抑えられた。事態が大きく変わるのは、第二次世界大戦が終結した1945年である。このとき、建国以来の共和人民党による一党独裁体制が終結し、複数政党制が導入されたのである。

 そして1950年の総選挙では、ついに政権交代が起こった。このとき政権に就いたのは、民主党である。その党首アドナン・メンデレスは、反世俗主義でも反アタテュルクでもなかったが、イスラム的価値観にたいする締め付けを緩める政策を打ち出した。これは、民主党すら予想しなかった、大きな支持をあつめた。オスマン帝国とイスラム的価値観の肯定は、多くの民衆が待ち望んだものだったのである。

 こうして1950年代には、オスマン帝国の名誉が回復された。1953年、イスタンブル征服500年祭が大々的に執り行われたのは象徴的な出来事である。オスマン帝国第七代スルタンであるメフメト二世は、1453年にビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープルを征服し、オスマン帝国の帝都に定めた。この世界史的出来事を、トルコの人々は、ようやく我らが祖先の偉業として称えることができたのだった。

 しかし、民主党政権は徐々に権威主義化し、不安定なものとなっていった。こうした状況に対処するため、1960年、軍部はクーデタをおこし、メンデレス首相を処刑して民主党を解散させた。トルコ国軍は、アタテュルクの理念を受け継ぎ、トルコを世俗化と西洋化へ導く存在である、と自己規定していた。そんな彼らにとって、オスマン帝国やイスラムの「復活」は許されないことであり、これもクーデタの理由の一端をなしていたのである。

 それでも、オスマン帝国を憧憬し、イスラムに親しむ国民が大多数である限り、選挙においては、親イスラム派の政党が一定の議席を確保するのは避けられない。それが議会制民主主義というものだからだ。

 その後も、政権が不安定化し社会的混乱がおこるたびに、軍部がクーデタによってリセットボタンを押す――こうしたシーソー・ゲームが、以降のトルコでは繰り返された。軍部によるクーデタと政権の転覆は、じつに1960年、1971年、1980年と、三度にわたって起こっている。必ずしも親イスラム派の台頭だけがクーデタの理由ではなかったが、その動因のひとつとなったのは確かである。オスマン帝国やイスラムへの評価も、これに連動して揺れ動いてきたのだった。

公正発展党とエルドアン大統領の登場

 こうした不安定な状況が大きく変わるのが、2002年である。この年の総選挙で、エルドアンを指導者とする公正発展党が大きく躍進し、与党となったのである。彼はもともと、イスラム主義を打ち出したエルバカン政権における若手のホープであり、イスタンブル市長として手腕を発揮し高い人気を得ていた人物である。

 公正発展党政権成立時には、親イスラムとみなされる同党にたいし、世俗派や軍部から強い懸念が表明された。しかし公正発展党は、当初みずからを中道保守と定義して宗教色を薄め、経済政策に注力することで幅広い支持を得ることに成功した。2010年前後より世俗派への批判を強め、強権化していったとされる同政権であるが、現在にいたるまで共和国はじまって以来の長期政権を続けている。エルドアン大統領も、2017年の国民投票により大統領制が成立したことで、国父アタテュルクをしのぐほどの権限を手中とした

 公正発展党政権の20年のあいだ、オスマン帝国とイスラムにたいする肯定的評価は、トルコにおいてゆるぎないものとなった。いまのトルコでは、帝国にまつわる記念行事は、あとを絶たない。エルドアン大統領も、みずからを帝国の偉大なスルタンたちの後継者と位置付ける。

 オスマン帝国史研究も、この20年で大幅に進展した。新しい近代的な公文書館が設立され、電子化が進んだ。研究書や論文の数も増大し、実証的な研究の蓄積は、飛躍的に厚くなりつつある。

 その一例として、拙著『ハレム――女官と宦官たちの世界』で詳述した、オスマン王家のハレム(ハーレム)研究が挙げられる。これまでハレムは、スルタンが無数の女性をはべらせた悪徳と退廃の場であり、帝国が衰退する原因をつくったと見なされていた。しかし近年の研究の進展により、ハレムは王位継承者の生育に特化した官僚組織であり、そこで働く女官たちにとっては一種の「学校」であった、ということが明らかになってきたのだ。

 オスマン帝国への肯定的評価は、一般の人々のあいだにも浸透したといってよい。2011年から放映され世界的なヒットとなったテレビドラマ『壮麗なる世紀(邦題:オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~)』を代表として、オスマン帝国時代をあつかったドラマや映画は人気を博し、ポピュラーなものとなっている。

 オスマン帝国の遺産とイスラムは、いまのトルコの人々のアイデンティティとして、確固たる地位を占めるにいたった。トルコ共和国建国以来つづいてきたシーソー・ゲームは、親オスマン、親イスラム側に完全に軍配が傾いたといえよう。野党第一党である共和人民党も、いまやオスマン帝国やイスラムを尊重する姿勢を見せるようになったのである。

動揺する建国の父アタテュルクの評価

 いっぽう、オスマン帝国を滅ぼし、世俗化をすすめたアタテュルクの評価は、複雑なものとなっている。そもそも、オスマン帝国やイスラムに親近感を感じている人々であっても、その多くはアタテュルクをいまだ敬慕すべき対象としている。だから、アタテュルクをめぐっては、たんに世俗派と親オスマン・イスラム派、というかたちで分断されているわけではない。

 また、アタテュルクを直接批判することは法律で禁じられているため、アタテュルクに反感を持つ人々も、直接、彼に非難の言葉を投げかけることはない。そのため彼らは、アタテュルク時代の政策や、彼に近い立場の政治家たちを批判するかたちで、陰に陽にアタテュルクの人気と権威を切り崩す戦略をとっている。こうした歴史をめぐる戦いが、いまのトルコでは進められているのだ。

 トルコは、2023年に大統領選を控える。選挙の争点は、外交や経済、コロナ対策などさまざまな分野にわたるであろうし、トルコをとりまく現状の深刻さからいって、歴史認識をめぐる問題は後景にしりぞく可能性もある。ただエルドアン大統領が、オスマン帝国の継承とイスラム的価値観の尊重を訴え、アタテュルクを暗に批判することでみずからの正統性を主張してゆくのは、間違いあるまい。

『ハレム―女官と宦官たちの世界―』(小笠原弘幸/著)

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小笠原弘幸(おがさわら・ひろゆき)

九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明史学講座准教授。

1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。専門はオスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『オスマン帝国』(中公新書、樫山純三賞受賞)、『ハレム 女官と宦官たちの世界』(新潮選書)などがある。

【参考資料】

新井政美『トルコ近現代史――イスラム国家から国民国家へ』みすず書房、2001年

今井宏平『トルコ現代史――オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』中公新書、2017年

M・シュクリュ・ハーニオール、新井政美(監訳)、柿﨑正樹(訳)『文明史から見たトルコ革命――アタテュルクの知的形成』みすず書房、2020年

小笠原弘幸(編)『トルコ共和国 国民の創成とその変容――アタテュルクとエルドアンのはざまで』九州大学出版会、2019年

小笠原弘幸『ハレム 女官と宦官たちの世界』新潮選書、2022年

カテゴリ: 社会 政治
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執筆者プロフィール
小笠原弘幸(おがさわらひろゆき) 九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明史学講座准教授。1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。専門はオスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『オスマン帝国』(中公新書、樫山純三賞受賞)、『ハレム:女官と宦官たちの世界』(新潮選書)などがある。
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