
【前回まで】都倉と野添を乗せた車は、政府中枢のある中南海へ。その一室で、華首相が「台湾の潜水艦は返還してもいい」と提案した。条件は日中安全保障条約締結への協力――。
Episode5 四面楚歌
6(承前)
大学時代、華は「ひらめきの天才」とも言われていた。
到底、思いつきとは思えないような戦略を、不意に考えつくのだ。しかも、実現性が高いものだった。
その才能故に、彼は若くして首相にまで上り詰めたのだろう。
「そんな悪だくみを、思いつきで、考えられるなんて、さすがです」
「少しだけ補足すると、中日安全保障条約については、僕のライフワークの一つでね。君が、恩先生を偲ぶ会に出席すると聞いた時から、持ちかけるつもりだった。ところが、そこに思わぬ幸運が巡ってきた」
事故を「幸運」と呼ぶあたりは、中国の傲慢な権力者の片鱗が覗いた。
「だから、有効活用しようと?」
「その通り。響子、悪い話ではないだろう」
日本の政界は、こういうスタンドプレイを、極端に嫌う。そうでなくても、時に政権とは異なる持論を公にする都倉の行動を警戒する敵が大勢いる。
そういうハレーションを脇にやれば、深刻な国際問題になりかねない事件を、一刻も早く収束できることは、たしかに「幸運」だった。
「日本の政治が面倒なのは、重々承知している。君のことを良く思わない守旧派が大勢いることもね。だから、当分の間、中日安全保障条約については、伏せてくれていい。僕は、君が誠実な人であると信じている。
君がこの場で、条約締結の交渉実現を目指すと約束してくれるだけでいい。そして、日本国内の関係各方面に、時間をかけて根回ししてくれ」
話がうますぎないか。
いや、一見そう見えるが、こんな裏取引をしたが最後、中国政府側に大きな弱みを握られてしまう。
彼らは、条約の提案は極秘に進めると「約束」しているが、政治の世界では「約束」とは交渉カードに過ぎない。それどころか、今回は「脅迫カード」に近い。
「もし、断ったらどうなるんですか?」
「我々は久しぶりの再会を楽しんで別れたというだけになる。もちろん、君もそこにいる親台派の元外交官も、無事に日本にお返しする」
そして、自分は、日中友好復活のための貴重なチャンスを、フイにした政治家になる……。

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