トルコはなぜEU(欧州連合)に加盟できないのか。この問いは、EUがなぜトルコを(入れたくても)入れられないのかと表裏一体だ。先に述べるが、その理由は宗教の相違ではない。
EU加盟要件である「コペンハーゲン基準」については、トルコの現政権下でも今後の方針転換によって、あるいは政権交代の場合には、EU側の理解も深まれば達成が期待できる。一方で、政権が交代しても変更を期待できそうにない外交政策こそが、加盟への究極の障害となっている。それがキプロス問題だ。
「我々は歴史的な真実を訴えかけるためここに来ている」。今年7月20日、島の北部ではちょうど50年目を迎えた1974年のトルコ軍キプロス派兵の記念式典が開催され、来席したレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は力を込めてこう述べた。政権に猛攻をかける大野党・共和人民党のオズギュル・オゼル党首も、式典では肩を並べた。世俗主義とイスラム教、クルド問題など、何かと分断の多いトルコにあってキプロス問題は、50年来国民の紐帯となってきた超党派の団結事項だ。
本稿では、いずれも1950年代後半に遡るトルコのEEC(欧州経済共同体)加盟申請とキプロス共和国誕生が、その後の展開でどう交差してきたかを振り返る。トルコ軍派兵の結果、鹿児島県ほどの面積のキプロス島は南北に分断され、北側は「北キプロス・トルコ共和国(以下「北」)」の成立を主張している。面積で島の約37%、人口は約32%の40万人ほど(推定)を占める同「国」は、今日に至るまで世界でトルコのみが承認し、トルコによる軍事占領を理由として国際社会から制裁を受けている未承認国家だ。
冷戦初期の最前線だった東地中海
キプロス島はトルコの地中海東沿岸部から南に約70km、ギリシャ本土からは東南約900kmの地点にある。元はオスマン帝国領だったが1878年イギリスに租借され、第一次世界大戦のローザンヌ講和条約でイギリス領有が確定した。
第二次世界大戦後に独立運動が起こり、島民の8割強を占めるギリシャ系によるギリシャへの「エノシス(帰一)」運動と一体化した。それはトルコにとって、少数派トルコ系島民の命運の問題だけでなく、国土をエーゲ海と地中海の両方面からギリシャ連合に包囲されることによる安全保障上の脅威である。トルコとギリシャの関係は、1952年にそろってNATO(北大西洋条約機構)に加盟しようやく安定に近づいたが、キプロスのエノシス運動の影響を受けることが懸念された。トルコが当初、島の英領存続を望んでいた背景である。やがて島のトルコ系もエノシスに対抗して「タクシム(分割)」運動を起こす。
冷戦開始によって東地中海は、西欧にとり、帝国主義抗争の時代以上にソ連の南下が懸念される警戒地域となった。トルコは第一次世界大戦後の分離解体の危機と、大恐慌もあった戦間期をソ連の援助で切り抜け、ギリシャは内戦中に共産化の恐れを体験した。そしてキプロスの反英独立闘争は、後に初代キプロス共和国大統領となるマカリオス3世大主教をトップとするキプロス正教会の動員力に支えられ、エノシス支持派のみならずキプロス共産党の強力な支持も受けていたからだ。1948年、ハリー・S・トルーマン米大統領がギリシャ正教の南北アメリカ大主教アテナゴラス1世を急遽トルコに送り込み、コンスタンティノープル世界総主教に就任させたのも、この地域をロシア正教会の影響力から保護させるためである。
それでも、西側陣営にとり宗教的な紐帯の強調はむしろ禁忌だった。正教を武器に浸透を図るソ連を利するうえ、宗派問題をかかえる西欧に内部対立を招きかねない。したがって、EUは当初から「キリスト教クラブ」的な性格を持っていたわけではなく、西側陣営の経済機構としてあくまで反共勢力の結束に徹して、トルコとギリシャを一体で処遇し、東側に引き渡さないことに注力していた。
1959年7月31日、EECにトルコがギリシャ(同年6月8日加盟申請)とともに新規加盟の手を挙げたのは、宗教の相違は問題とされないのを読み込んでのことであり、トルコはバチカンへの急接近をその補強策とした。1951年パリ条約で発足した欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が、1957年ローマ条約で欧州原子力共同体(EURATOM)及びEECを創設してまだ2年余りで、イギリスさえ非加盟を選択していた時代だ。ただし、トルコの申請は10カ月後にトルコでの軍部によるクーデター発生を受け、受理を凍結された。
キプロス共和国が誕生したのは、トルコのEEC加盟申請から1年後の1960年8月16日だ。キプロスの独立は、前年にイギリス、ギリシャ、トルコ3カ国の間で島内両系代表の受諾を受け成立した「チューリヒ・ロンドン合意」に依拠している。合意文書は、上記3カ国間のキプロス共和国建国合意条約、同3カ国をキプロスの独立性維持と他国との合体・分割禁止のための保障国とする保障条約(「以下「保障条約」)、同3カ国同盟条約他で構成されている。
ところが新生キプロス共和国の路線選択が、西側陣営にとって緊張度をより高めた。英領離脱に伴いNATOを離脱し、独立から1年後には英連邦加盟国でありながら非同盟運動に参加したことだ。
キプロス軍事クーデターとトルコ派兵
1963年11月末、マカリオス大統領が両系国民の権利配分について定めた憲法の13条項の改訂承認を3保障国に要請したことで、キプロス情勢は流動化し始める。トルコは1964年3月、キプロス国家機関からのトルコ系国民の排除とギリシャ系国民による虐殺への報復として、トルコ国内のギリシャ国籍者・トルコ国籍者を併せて4万人近くのギリシャ人を放逐する。トルコのEEC加盟申請が1963年9月12日に受理された直後の出来事だった。
「フォーサイト」は、月額800円のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。