【ブックハンティング】厳選された公開情報で学問的に描いた「鄧小平」像

執筆者:高原明生 2008年5月号
タグ: 中国 毛沢東 香港
エリア: 北米

 いまや世界の工場と化し、今年中には確実に米、日に次ぐ世界第三位の経済大国となる中国だが、その内政には相変わらず竹のカーテンがかかっている。中国共産党は革命政党の原則である秘密主義を崩していない。指導者たちの執務所や住居が集中する中南海で展開される政治過程は極めて不透明だ。
 たとえば、通常時の最高意思決定機関は九名のメンバーから成る中央政治局常務委員会だ。しかし、それがどれほどの頻度で開かれているのかさえ明らかにされていない。一九八〇年代にはほぼ毎週一回開催されると言われたが、現在は二週間に一度のペースだという説がある。だが本当のところは、外部観察者のみならず一般の党幹部にもわからない。現代中国はジャーナリストにとって天国であり、学者にとって地獄だと言われる所以だ。
 そうした制約の中で、本書『トウ小平秘録 上』はトウ小平を主人公とする中国現代史の政治過程を詳細に再現してみせた労作だ。著者の伊藤正氏は共同通信の北京支局長や論説委員長を歴任した後、産経新聞に転じて中国総局長を務める百戦錬磨のチャイナ・ウォッチャーである。一九七六年の周恩来死去後の第一次天安門事件や同年九月の毛沢東死去、そして八九年の第二次天安門事件などを現場で取材した、歴戦の勇士ともいうべきベテラン・ジャーナリストだ。
 しかし、この本の「ジャーナリスティック」な部分は『トウ小平秘録』という書名のみである。本書の特徴は、近年になって公刊された指導者の年譜(日誌風に編まれ、場合によっては発言内容まで記録したもの)や、回想録などの公開資料をフルに活用している点にある。確かに、『中国「六四」真相』のように学術的には史料価値が確定していないものも使われており、回想録を百パーセント信じるわけにもいかない。しかし、本書における著者のアプローチは、総じて学問的禁欲主義に徹していると言ってよい。対面取材で得た、いわば根拠を示せない情報はほとんど使われておらず、香港情報もプロが納得できるもののみに厳選されている。
 本書には、六部にわたった産経新聞での連載のうち、「天安門事件」「南巡講話」「文化大革命」の三部が収録されている。いずれにおいても、公開情報から深い洞察が得られることが示される。たとえば毛沢東は、文革中の七三年春に復活させたトウ小平をすぐには信頼しない。だが同年末、対米姿勢をめぐってトウが周恩来を批判したと聞き、トウを重用するようになったという。
 また、八七年の第十三回党大会の後、トウ小平と趙紫陽の間にすきま風が吹くようになる。その一つの契機は政治改革についての理解の違いだった。トウの考えはいわば効率向上のための行政改革に留まっていたが、趙は民主政治の確立が必要だと考えた。さらに、八八年にトウ小平が決断した価格の自由化が広範な買占めや買いだめ、そしてインフレを招来すると、陳雲ら計画経済論者たちの強い批判を受け、トウは暫し改革にブレーキをかける方向へ転換した。やはりトウは、基本的な政策上の立場を超越して、全体を調整するバランサーの役割を果たしていたのだ。
 無論、公開情報に依拠するのみならず、著者が現場にいた強みも発揮されている。興味深く思われた例を一つ挙げれば、七六年の第一次天安門事件の際、トウ小平を支持した壁新聞が「ほぼ皆無だった」という観察が示される。ところが《中華人民共和国日史》など公式資料では、「トウ小平同志が再び中央の活動を主宰すれば全国人民は大いに痛快」「打倒トウ小平、天下不太平」などのビラやスローガンもあったと強調されている。
 つまり、歴史は勝者によって書かれるという事情がやはり現代中国にも存在する。その意味で、私たちはまだトウ小平に関する「神話」から完全には逃れられない。たとえば、七八年の三中総会(第十一期中央委員会第三回総会)において、「階級闘争を要とする」というスローガンの使用を果断に停止したというのが党の公式見解だが、それは事実と異なる。トウの権威と権力、そして改革の方向性がすぐに確立されたわけではないのだ。
 権力闘争に敗れた華国鋒の回想録が公刊される日はあるだろうか。それはわからないが、実事求是で「神話」に挑戦する著者の健筆に期待したい。

Takahara Akio●東京大学大学院法学政治学研究科教授。1981年東京大学法学部卒。88年英サセックス大学開発問題研究所博士課程修了。立教大学法学部教授などを経て現職。研究分野は、現代中国政治、東アジアの国際関係。共著に『毛沢東、トウ小平そして江沢民』(東洋経済新報社)など。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
高原明生(たかはらあきお) 東京大学大学院法学政治学研究科教授 1981年東京大学法学部卒、88年英国サセックス大学にて博士号取得。立教大学教授等を経て2005年より東京大学大学院法学政治学研究科教授、2016年より東京大学公共政策大学院教授を兼任(2018-20年公共政策大学院院長)。在中国日本大使館専門調査員、英国開発問題研究所理事、ハーバード大学訪問学者、アジア政経学会理事長、新日中友好21世紀委員会委員(日本側秘書長)、北京大学訪問学者、メルカトール中国研究所上級訪問学者、オーストラリア国立大学訪問学者、JICA緒方貞子平和開発研究所所長などを歴任。JICA緒方貞子平和開発研究所シニア・リサーチ・アドバイザー、日本国際問題研究所上席客員研究員、日本国際フォーラム上席研究員などを兼任。近著に『シリーズ中国近現代史⑤ 開発主義の時代へ1972-2014』(共著、岩波新書)、『東大塾 社会人のための現代中国講義』(共編、東京大学出版会)、『中国の外交戦略と世界秩序――理念・政策・現地の視線』(共編、昭和堂)、『証言 戦後日中関係秘史』(共編、岩波書店)、『日中関係 2001-2022』(共編、東京大学出版会)。
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