外交の現場で練り上げられた中国を理解する「思考の枠組み」

宮本雄二『2035年の中国 習近平路線は生き残るか』(新潮新書)

執筆者:高原明生 2023年8月18日
タグ: 中国 習近平
エリア: アジア
中国を、そして習近平を理解する一助となる「思考の枠組み」を紹介する( 360b / Shutterstock.com)

 若者の失業率が過去最悪を更新している中国で、その最高指導者の習近平は最近、次のような言葉を発表した。「祖国と人民が最も必要としている場所で光と熱を発せよ、さすれば悔い無き青春の記憶を残せる……」。若者たちが冷笑したことは想像できるが、目の前の現実とかけ離れたこの文革時代の輝ける記憶も、間違いなく習近平体制の行動原理の一部なのだ。

 そもそも習近平とは誰なのか、その思想と権威は何を求め、何を恐れているのだろうか。体制の外交が抱える米中対立の火種は、いずれ全面衝突へと向かうのか――。対中外交の最前線を熟知する元駐中国特命全権大使・宮本雄二氏の近著『2035年の中国 習近平路線は生き残るか』(新潮新書)から、東京大学法学部の高原明生教授(現代東アジア政治)が中国を理解するための「思考の枠組み」を紹介する。

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 今や、どこのどういう立場で仕事をしているとしても、中国の動向から目を離すことはできない。習近平政権と中国の行方が世界に大きな影響を及ぼすことは間違いない。しかし、相変わらず中国政治の奥の院は分厚い帳に閉ざされている。昨年の党大会閉幕式での胡錦濤前総書記の途中退席や、今般の秦剛外相の突然の更迭が明瞭に示すのは、相変わらずの中国の不透明性にほかならない。

 日中国交正常化から50年以上が経ったが、国民の間の相互理解はどれほど進んだと言えるだろうか。昨今の日本では、中国を批判し、その否定的な面をあげつらうことを目的にしたような本が書店に多く並んでいる。インターネット上でも読むに堪えない感情的な議論が横行する。こうした知的状況下で、果たして国民の代表である国会議員は正しい政策方針を議論し、決定することができるだろうか。

 このような時代に頼りになるのは、その道一筋のプロフェッショナルだ。宮本雄二氏は、長年にわたり対中外交の最前線で活躍した経験をもとに、中国および日中関係に関する深く、かつ冷静な解説を世の中に向けて発信し続けている。私のような研究者を含め、日本社会はそれから大いに裨益してきた。

 もちろん、習近平政権下の中国は政治面でも経済面でも大きな変貌を遂げた。過去の中国に関する知識、いわば中国専門家の常識が通用しなくなっている面も確かに多い。だが宮本氏の優れた点は、思考を続け、外交の現場で練り上げられてきた中国理解のための「脳内ソフト」を新しい情報を加味しながら修正し、精緻化してきた点にある。

根本的に重要なのは「人物」の理解

 著者は本書において、第3期に突入した習近平政権が直面し、今後の中国を理解する上で鍵となる諸問題を余すところなく取り上げて俎上に載せている。新書にもかかわらず、内容は包括的で掛け値なく読み応えがある。

 そもそも習近平とは誰か、どのような人物なのか。習近平という、ほとんど独裁的と言える程の権威と権力を獲得した指導者を理解することが、中国の行方を探る上では根本的に重要な課題であることは間違いない。

 習近平の人格や思想に影響を与えた要因は何か。本書は、党と自分の信念に忠実に生きた父親、習仲勲元副総理の影響や、青年時代に陝西省の農村に下放されて幹部として務め、統治機構の末端を支えた経験、そして福建や浙江、上海といった沿海地方を指導した際に政治、イデオロギーを重視した経歴などにつき紹介している。

 確かに、文化大革命についての習近平の評価は、当時反党分子として吊るし上げられた父親とは異なるように思われる。息子は貧しい農村に下放されて苦労したのだが、その艱難辛苦を乗り越えて自分を鍛えることができた、といった成功体験として文革をとらえているのだろう。7月10日の『人民日報』が掲載した評論記事は、青年たちに次のような呼びかけを行った。西部地域や農村など、「祖国と人民が最も必要としている場所で光と熱を発せよ、さすれば悔い無き青春の記憶を残せるのみならず、現場での錬磨から一生ものの精神的な富を得ることができる」——就職難にあえぐ今の若者たちに対し、正しい職業観を持てと呼びかけたのだが、事実これが最高指導者の青春の記憶なのだろう。中国のネット民たちは、この評論に冷笑を浴びせたと伝えられるのではあるが。

 中国で盛んに学習されるようになった習近平思想とは何か。本書は、習近平思想の特徴として、政治とイデオロギーの重視、党の指導の強調、党組織の強化、国粋主義的なナショナリズムを挙げている。そして問題はこうした思想を掲げてどのような実績が上がるかであり、国民の反応によっては将来路線闘争が起こる可能性もあると指摘する。

 まさにその通りであろう。かつて鄧小平は、文革の反省から集団指導制を導入し、指導者の個人崇拝を厳しく戒めた。その際の敵役が華国鋒であり、毛沢東の指示と決定の堅持を唱えたが、それよりも実践の結果が大事だと主張した鄧小平らに打倒された。習近平も、いつかその轍を踏む日が来ないとも限らない。

習近平につきまとう「統治の正当性」への不安

 では、習近平政権の安定性がこれから揺らぐことはあるのか。本書は、選挙のない中国で習近平は「統治の正当性」の欠如を意識しており、国民の支持を失うことを恐れていると指摘する。これまでは生活水準の向上によってその支持をつなぎとめてきたが、次第にそれだけでは国民は満足しなくなる。習近平は反腐敗闘争や環境の改善を進め、現時点では国民はまだ政権を支持している。しかし、昨年までの厳しいゼロ・コロナ政策と国民生活への管理と締め付けの強化に国民は不満を募らせた。オミクロン変異株の流行、ロックダウンへの抗議活動の広がり、そして準備なき制限措置の解除により、習近平の指導者としての権威に陰りが生じたことは否定できないと本書は指摘する。

 さらに著者が問題として取り上げるのは、中国共産党の経済ガバナンスだ。第一に、中国は大きいので政策の微調整が難しい。第二に、市場化に乗り出してから、まだ40有余年しか経っていないのに経済は日本の1970年代か80年代の水準に達している。この経済実態に官僚機構は追い付けていない。そして第三に、官僚たちが指導者の優先順位を忖度して動く結果、多くの政策目標を予め検討し、調整して同時に追求することが難しい。さらに第四には、統制の強化と「経」から「政」にガバナンスの重点がシフトしたことが影響を及ぼしているという。

 これらも大変興味深い指摘だ。どの国の官僚機構もそうかもしれないが、中国のそれが特に苦手としているのが部門間協調だ。共産党の大きな役割が実はそこにあるのだが、なかなかうまくいかず矛盾が起きる。例えば、経済発展のために対外交流を盛んにすべきなのに、国家安全のためと称して外資企業の社員を拘束してしまう。そして統制の緩和と強化のサイクルは、政治と経済との矛盾という、社会主義市場経済の孕む根本的な矛盾の所在を指し示す。すなわち、経済活性化のために統制を緩めると、私営企業が強大化する一方、共産党の力が相対化される。それに不安を募らせ、やがて統制を強化すると、その結果として経済が活力を失う。次の指導者は統制緩和に舵を切るだろうが、それまで中国の社会安定はもつのだろうか。社会がより自由だった江沢民時代の方が安定していたという本書の指摘は大変興味深い。

一貫する「誰がどのような行動を取ればよいか」の考察

 では、習近平政権の外交は如何なものか。日本人は忘れがちだが、内政の安定のためには外交の安定が欠かせない。日本と同様、中国にとっても最も重要な国は米国だ。本書は、現在の中国指導部の対米観は甘いという。米国議会は「一つの中国」の原則を否定する方向に動き、中国側の外交的レッドラインを試している。それに対し、中国は軍事演習の強化や戦闘機による台湾海峡の中間線越えなどで米国の軍事的レッドラインを試している。だが中国自身が米国の地位を脅かしている今日、米国が譲歩する可能性は少ない、しかし中国の国粋主義的ナショナリズムは強く、米中は衝突への道を歩んでいると本書は憂う。

 軍事力の増強を最重要課題とする中国の、軍拡のペースは2027年までは落ちないと著者は予測する。だが経済の減速もあり、中国が米国を相手に圧倒的優位に立つことはできない。本書によれば、中国は米国と軍備管理、軍縮の話し合いに入り、東アジアで安全が保たれる仕組みの構築に尽力すべきであり、日本もそのための環境整備に努め、中国外交の路線修正を促す外交を強化すべきだ。日中関係については、それを競争的共存関係と捉え、中国との間に平和で安定した協力関係を築くことが日本の国益に資するという基本的な考え方は依然として正しい、中国との関係がもたらすマイナスを最小化し、プラスを拡大する「普通のあるべき外交」をしっかりやっていくのがよいというのが宮本氏の主張である。

 外交に関する本書の分析を読んで感嘆するのは、それが単なる評論ではなく、事態の改善のために誰がどのような行動を取ればよいか、現実的な政策の考察が常に行われていることだ。プロの外交官にとっては当然のことかもしれないが、現状分析に当たる学者はこの姿勢をよく学ぶ必要がある。

 対外政策決定に関し、現状に鑑みて、日本と中国に共通することが二つあるように評者には思われる。一つには、どちらも一方における競争と、他方における協力を同時に進めなければならない。そしてもう一つだが、競争と協力という矛盾する政策を巧みに同時進行できるかどうかには、どちらの国でも内政の事情が強く反映される。安全保障の観点からは、相手を強化することになるので協力の追求はナンセンスだ。だが、協力せずに経済が衰弱すれば、競争は不可能になる。二つの相矛盾する真実の間で調整を図り、対外関係を安定的に運営できるかどうかは、ひとえに指導者の政治的な力量にかかっている。外交の基本も内政にある。

 本書は内政と外交の全体をバランスよく捉えた著作である。ここで示される思考の枠組みを押さえておけば、次々と新たに発生する事象を分析し、政策を考える上でも役に立つ。優れた現状分析は、未来の事象を理解するためにも大いに活用されるべきであり、長きにわたって大きな価値を有するものなのだ。

宮本雄二『2035年の中国 習近平路線は生き残るか』
カテゴリ: カルチャー 政治
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執筆者プロフィール
高原明生(たかはらあきお) 東京大学大学院法学政治学研究科教授 1981年東京大学法学部卒、88年英国サセックス大学にて博士号取得。立教大学教授等を経て2005年より東京大学大学院法学政治学研究科教授、2016年より東京大学公共政策大学院教授を兼任(2018-20年公共政策大学院院長)。在中国日本大使館専門調査員、英国開発問題研究所理事、ハーバード大学訪問学者、アジア政経学会理事長、新日中友好21世紀委員会委員(日本側秘書長)、北京大学訪問学者、メルカトール中国研究所上級訪問学者、オーストラリア国立大学訪問学者、JICA緒方貞子平和開発研究所所長などを歴任。JICA緒方貞子平和開発研究所シニア・リサーチ・アドバイザー、日本国際問題研究所上席客員研究員、日本国際フォーラム上席研究員などを兼任。近著に『シリーズ中国近現代史⑤ 開発主義の時代へ1972-2014』(共著、岩波新書)、『東大塾 社会人のための現代中国講義』(共編、東京大学出版会)、『中国の外交戦略と世界秩序――理念・政策・現地の視線』(共編、昭和堂)、『証言 戦後日中関係秘史』(共編、岩波書店)、『日中関係 2001-2022』(共編、東京大学出版会)。
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