28歳で世界最大のユニコーンからFIRE、中国全土で話題になったエンジニアが観る未来――中国「ミレニアル世代」の肖像

執筆者:夏目英男 2022年5月4日
エリア: アジア
高校3年時の郭宇氏(右から2番目)(写真全て郭宇氏提供)
1980年以降に生まれた中国のアフター・ミレニアルズは、高等教育の再開、一人っ子政策、経済体制の改革など国の方針が大きく変わる波瀾万丈の時代を経験し、中国の飛躍的な成長も目の当たりにしてきた。新しい道を切り拓いた80年代生まれ、チャンスを逃さない90年代生まれ、階層の固定化に苦しむ2000年代生まれ――そんな彼らの目に日本はどのように映っているのか。(この記事の後編「「アリペイ」草創期を支えたエンジニアが日本に移住して挑む「Web3」ビジネス――中国「ミレニアル世代」の肖像」はこちらからお読みいただけます)

 “少年が賢ければ国も賢く、少年が裕福であれば国も裕福、少年が強ければ国も強く、少年が自由であれば国も自由、少年が進歩すれば国も進歩する”

 中国清朝末期、戊戌の変法(明治維新と同様、立憲君主制による近代化革命)に失敗し、日本へと亡命した中国の思想家、文学者である梁啓超は、亡命中に「少年中国説」という散文を書き残した。

 封建制度下の清朝政府を“老いた帝国”と批判し、少年のような中国を切望した梁啓超は、既得権益を死守する保守派ではなく、若き改革派が国の維新を担う近代化革命を期待した。その後、辛亥革命が発生し、君主制が廃止され、アジアにおいて史上初の共和制国家が中国に誕生した。

 「少年中国説」が発表されてから早100年経つが、現代中国は未だこの思想を受け継いでおり、梁啓超が期待したような“少年たち”が発展を支える社会と言えよう。

 そんな“少年”の一人を取材した。世界最大のユニコーン企業であるバイトダンス社の初期エンジニアとして活躍した後に早期退職をし、現在日本でスタートアップを経営中の郭宇氏だ。

 郭氏は1991年に中国・江西省で生まれ、中学時に両親が働く深圳に移住。大学は“華僑トップレベルの大学”と称される曁南大学へと進学し、行政学を専攻した。しかし、自身の専攻に違和感を抱き始め、在学時に独学でプログラミングを学習。その後、アリババグループのアリペイにて長期インターンに従事し、キャッシュレス決済システム「アリペイ」の初期開発に携わる。

 2013年には友人と 北京でスタートアップを創業した。このスタートアップが創業からわずか1年弱 でバイトダンス社に買収され、それから6年間エンジニアとして開発に従事した。

 2020年2月12日に、郭氏はWeChatとWeiboを通じて、早期退職に関する内容を投稿し、日本へと移住することを公言する。わずか28歳(当時)で世界最大のユニコーン企業から早期退職をする決断に、ネットは騒然となった。郭氏のFIRE(Financial Independence, Retire Early=経済的自立と早期リタイア)は中国のQ&Aサイト「知乎(Zhihu)」にスレッドが立ち、瞬く間に1000万ビューへと到達した。

中国のネットフィーバーの中で起業

――インターネットに触れたきっかけは?

 僕は中国・江西省の生まれで、実家から市街地まで車でも2時間を要する田舎でした。父親は電気工事士で、僕が生まれてから深圳へ母親と出稼ぎに行きました。僕は祖父母に育てられ、中学生の時にやっと深圳へと移住しました。インターネットとは無縁の生活で、当時はおじさんから送られたSF小説にはまり込み、夢は作家になることでした。

 転機となったのが高校3年生です。僕が立ち上げた読書会のためにウェブサイトを作成しようと考え、高考(中国版大学入学共通テスト)が終わった3日後には独学でプログラミングを学び始めました。その頃に前述のおじさんとおばさんが僕にノートパソコンをプレゼントしてくれて、それから大学の4年間、僕はプログラミングにのめり込んだのです。

――専攻は文系の行政学でしたが、その後もプログラミングを独学で続けたのですか?

 はい。僕は典型的なエンジニアとは違い、文系の学生でした。大学の講義を受け始めると、行政学という学問に違和感が生じ、将来の職業との結びつきが自分の中で想像できなかったため、大学の講義をサボるようになりました。

 当時は先生も教材もなかったので、大学の寮でひたすらコードを書く日々を過ごしていました。エンジニアとして大きな転機となったのが、大学3年の前期、アリババグループのアリペイからインターンの採用通知がきたことです。翌日にはフライトを取り、アリペイ本部がある浙江省の杭州へと飛び立ちました。当時(2011年)はまだアリペイは開発をスタートして間もない頃で、ジョインしたエンジニアの方々は皆コンピュータサイエンスの専攻ではなかったのです。

――今やユーザー数10億を超えるスーパーアプリも当時は開発チームの採用に困っていたのですね。その後はアリペイで開発を続けたのですか?

 アリペイには2年ほど在籍して、その後友人と北京でスタートアップを創業しました。2013年前後というと、中国で最もスタートアップが盛り上がっていた時期です。当時、中関村一帯(清華大学や北京大学が所在する中国のシリコンバレー)のカフェを訪問すると、創業者が熱心に投資家へピッチする姿をあちらこちらで目にしました。ピッチが終わると、皆オフィスに戻りコーディングを続けるという環境で、僕も半年ほどオフィスで寝泊まりしながらコードを書いていました。あの熱狂的な環境に身を置けたことは今でも幸せに感じます。

 創業したその年の2014年12月、僕たちの会社はバイトダンスに買収されました。当時、バイトダンスは人材の確保のため、アクハイヤー(人材確保を目的とした企業買収)を繰り返していました。僕たちの会社も買収された後に、僕はエンジニアとして採用され、まだ300人規模だった会社にジョインしました。20代の若手たちがお昼に、社内の食堂で大声を出しながら開発技術について話し合うような環境でした。その時、僕はこれこそ自分が北上した理由だと感じました。若者がお互いの知恵を振り絞って、世界を変えるプロダクトを開発すること。アップルをはじめ、米国のスタートアップが皆自宅のガレージでスタートしたように、ここが中国の“カリフォルニアガレージ”だと思いました。

2014年、郭宇氏が友人と北京で創業した際の写真

28歳の若さで早期退職、日本へ

――郭さんの経歴を振り返ると、まさに中国のデジタル変革時代そのものを物語っていますね。その後、何をきっかけに日本へ興味を持ち、早期退職をして日本へ移住することを決めたのですか?

 当時、バイトダンスを含め中国のIT企業は“大小週”という働き方を取り入れていました。つまり隔週で土曜日出勤があり、ちゃんとした週末を過ごせるのは2週間に1度だけ。それでも僕は若いうちに過ごせる週末を大事にしたいと思い、2013年にとある目標を立てました。それが30歳までにフライト距離100万キロを達成することだったんです。

 この目標を達成するには、ほぼ毎週末旅行に出かけなければ到底達成することができません。それに加えて、欧米諸国に旅行するとなるとフライト時間だけで週末が潰れてしまいます。そこで、僕は地方都市でも交通の便とレジャー施設がしっかりしており、個性豊かな文化が残る日本を選びました。2週間に1度、金曜日の夜9時に日本へと飛び立ち、月曜夜明け前の2時に帰国するという日々を繰り返していました。

 僕のバイトダンスでの収入は全て旅行に注ぎ込みましたが、それと同時に中国IT企業への株式投資を始めていました。スタートアップの創業経験もあり、バイトダンスで働いていたため、中国のIT領域には比較的詳しく、株式投資も順調にいきました。そして、2020年にバイトダンスのストックオプションと株式投資をもとに、僕は早期退職を宣言し、日本へと移住しました。

 日本は食べ物や水、空気も美味しく、衣食住全てにおいて優れている国だと思います。それ以外にも、医療や介護面でも優れており、治安も他の国と比べるとかなり安全です。移住する前に、欧米や、オセアニアなどいろんな国とも比較しましたが、ここまで総合的に優れている国は日本以外なかなかありません。総合的に考え抜いた結果、日本が最善の移住先だと判断しました。

 また僕は大の温泉好きです。日本へ移住した理由の一つに、将来日本で温泉旅館を経営したいという目標がありました。株式会社山月夜という法人を立ち上げており、コロナによる規制が緩和されたら、これを起点に引き続き日中文化交流のプラットフォームを構築したいと考えています。

郭宇氏のバイトダンス在籍時のデスク。デスクには日本旅行のお土産がずらりと並んでいる。

世俗的な価値を重んじる日本人

――中国のアフター・ミレニアルズの代表的な存在として、自分たちは自国の他の世代、あるいは他国の同世代と比べてどのような特徴があると思いますか。

 まず自国の世代についてですが、1980年以降、中国は劇的な変化を迎え、80後から00後(1980年代生まれから2000年代生まれ)まで特徴が大きく異なります。まず、僕自身は1982年に発令された一人っ子政策下で生まれた「90後」(1990年代生まれ)世代になります。この世代は本格的に中国経済が変動した時代に生まれたと同時に、一人っ子であるがゆえに、上の世代と比較すると、極めて独立志向が強く、負けず嫌いで、チャレンジ精神が旺盛な人々が多いイメージです。

 例えば僕の高校では、多くの学生が中国の大学ではなく、欧米の大学へと進学しました。あの時代においては、中国よりも欧米にチャンスがあると考える人が多く、彼らは国内で安定した人生を求めるよりも、いち早く国外に飛び立ち、がむしゃらにその機会を取りに行きました。今でも彼らの多くはシリコンバレーやニューヨークなどといった大都市で活躍しています。これは上の世代では考えることはできません。僕たち90後はチャンスがある場所に身を置くことを特に大事にしています。

 2012~16年 は、中国のモバイルインターネットのユーザーが劇的に成長し、スタートアップの環境が整い始めた時期でした。いわば中国のインターネットが最も発展したこの時代に、彼らの多く は帰国することを選びました。しかも、母校がある深圳ではなく、資本や人材が集まっている首都・北京にです。

 では、僕たちの下の世代である00後はどうなのか。彼らは80後や90後が過ごした中国の激動の時代を経験したことがなく、比較的国力も付いた時代に生まれ育ちました。しかし、物事には常に両面性があります。僕たちは波乱万丈の時代を生き抜いたがゆえの雑草魂や向上心があります。しかし、00後は激化する競争の中、安定した職を得るのが精一杯です。それは市場におけるチャンスが少なくなり、社会階層の流動性が低下したことに起因します。

――では郭さんの世代と日本の同世代を比べると、どのような特徴がありますか?

 僕が日本に移住してから、この質問をする方が多くいらっしゃいます。結論から話すと、中国人はよりアメリカ人に似ていると思います。これは民族的性格からの話で、中国人は個人の自由を追い求めると同時に、リスクテイクに前向きな民族だと思います。先ほど話した内容と重複しますが、目の前に置かれたチャンスを積極的に掴みに行き、失敗を恐れず、自信にあふれている人が多い。特にIT産業で働いている若者はこの傾向が顕著に表れていると思います。

 逆に日本はというと、僕の限りある理解にはなってしまいますが、グローバル的な視野を持ち、リスクを恐れず積極的にチャレンジを受け入れる若者は少ない気がします。どちらかというと世俗的で、メディアが良しとするものを追い求める傾向があります。

 僕が日本に移住して驚いたのが、東大生を題材にしたバラエティ番組があったこと。もし米国でスタンフォード大学や、ハーバード大学の学生を取り上げ、彼らを題材にしたバラエティ番組が作られたらそれこそ偏見だと批判されるでしょう。もちろん、中国でも清華大学や北京大学は優秀だと思いますが、深圳に住んでいる学生にとっては香港大学や米国の大学など限りなく選択肢は多い。日本のように、世俗的な価値を大事にし、若者が皆同じような人生のレールを走っていてはイノベーションは起きないと思います。

 僕は明治維新直後や、昭和時代の日本人を心の底から尊敬しています。当時の日本はイノベーションの最先端国。人々は果敢にリスクを負って、次々と新しい発明を世に送り出しました。しかし、今の日本には残念ながらその面影はなく、自信を無くしたように見えます。

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執筆者プロフィール
夏目英男(なつめひでお) 1995年、東京生まれ。両親の仕事の関係で5歳で北京移住。2017年清華大学法学院及び経済管理学院(ダブルディグリー)を卒業。2019年、同大学院公共管理学院(公共政策大学院)卒業後に帰国。日本の政府機関で日本と中国をつなぐ事業に従事する傍ら、中国の若者トレンドやチャイナテックなどについての記事を執筆。現在、日本の独立系ベンチャーキャピタルにてスタートアップへの投資や、投資先の支援業務などを行う。著書に『清華大生が見た最先端社会、中国のリアル』(クロスメディア・パブリッシング)がある。
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