インテリジェンス・ナウ

最高司令官は「クレムリンの工作員」、プーチン戦略を揺るがすFSBの大失態

執筆者:春名幹男 2022年5月26日
エリア: ヨーロッパ
ベセダFSB第5局長(写真)の拘禁は各メディアで報じられた(『モスクワ・タイムズ』HPより)
かつてKGB工作員だったプーチン大統領は、旧KGB人脈による組織を挙げた支援で権力の座に就き、権勢を振るってきた。だが腹心をトップに据えたFSBのウクライナ政権転覆工作は失敗。情報機関の内部でも亀裂が生じるかもしれない。

 ウクライナの首都キーウに特殊部隊を投入して、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領を殺害、首都を制圧し、傀儡政権を樹立する――ロシア軍のウクライナ侵攻はそんなシナリオで開始される、と米英の情報機関は想定していたようだ。

 だから、ロシアはウクライナ政府高官の「殺害リスト」を作成した、といった情報も伝えられていた。しかし、実際には緒戦の突撃作戦は大失敗で、ロシア軍の苦戦が続いている。

 実は、その突撃作戦を担った特殊部隊は、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の肝いりで連邦保安局(FSB)内に創設された秘密工作機関だった。この工作機関を率いていた上級大将は逮捕・拘禁され、工作員約150人は解雇されたとみられる。

 ウクライナ侵攻では、指揮・命令は現地ではなく、クレムリンから発していると伝えられる。プーチン大統領自身の責任も否定できないとみられ、ロシア情報機関の中核であるFSBは動揺しているようだ。

大統領就任は「KGBの勝利」

 プーチン氏は1952年レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)生まれで今年10月7日、70歳になる。レニングラード大学を卒業して、旧ソ連国家保安委員会(KGB)工作員となり、旧東ドイツ・ドレスデンの駐在先から「ベルリンの壁崩壊」後に帰国。サンクトペテルブルク副市長などを経て、1996年に首都モスクワに移り、大統領府副長官、FSB長官、首相などを務めた。大統領代行を経て、2000年3月の大統領選挙で当選、1期4年の任期を2期務めた。その後腹心のドミトリー・メドベージェフ氏の大統領在任中は首相を務め、2012年に再出馬して当選。現在は1期6年の任期の2期目だが、憲法改正で2024年の任期切れ以降も出馬は可能だ。

 疾風の如く、クレムリン入り後わずか約4年で大統領の座に駈け上がった。

 その理由の第一は、1999年8月に首相に就任したばかりのプーチン氏が「テロ対策」で徹底的な強硬策に出て、市民の不安を払拭し、人気を上げたことだ。

 同年8月から9月にかけて首都モスクワなどの高層アパートで起きた連続爆破事件で約300人が死亡、1000人以上の負傷者を出した。プーチン氏はチェチェン独立派武装勢力のテロと断定してチェチェンを攻撃し、世論の支持を得た

 しかしこの事件では、証拠とされる爆弾などをめぐって多々不審な疑問が浮上、FSBによる偽装テロの疑いが濃厚と伝えられている。

 第二は、プーチン首相が「大統領代行」として、「辞任するボリス・エリツィン元大統領と家族に対する汚職の訴追」をしないと保証する決定を出したこと。実際は、不訴追を条件にエリツィン氏を辞任に追いやったという、いかにも元工作員らしい手口だった。

 まさに、プーチン氏の大統領就任は、「KGBの勝利」(オレグ・カルーギン退役KGB少将)だったとみていいだろう。背後で旧KGB人脈が組織を挙げて支援した。

「国家統制主義者」という核心的思想

 プーチン氏は最高権力者に就く直前に、次のような驚くべき発言をしたという。

 「ロシア政府内に配置された情報工作員が 第一段階の工作を成功裏に完了した」

 「政府の最高レベルに侵入する任務は完了した」

 ロシア・スパイ機関の「本山」として知られる、クレムリンに近いルビャンカ広場のFSB本部で、1999年12月20日に行われた「チェーカ」(「全ロシア非常委員会」の略称。KGB、FSBの前身)創立82周年を祝う会合でのことだ。

 当時プーチン氏は首相で、同年12月31日に突然辞任するエリツィン大統領に代わって、大統領代行に就く。そんな段取りが決まっていたとみられる。自分は「秘密工作」によって大統領になる、と公言したのと同然の発言だった。FSBの幹部を前にして本音が出たのだろう。

「プーチン分析」で屈指の研究者と言われるフィオナ・ヒル氏(現ブルッキングズ研究所上級研究員)の『Mr. Putin: Operative in the Kremlin』(邦訳『プーチンの世界:「皇帝」になった工作員』新潮社)によると、プーチン氏は「国家統制主義者(Statist)」だという。

 そのイデオロギーは、ロシア革命の際の反革命勢力と戦う防諜治安機関「チェーカ」を淵源とし、さらに現在のプーチン政権の核心的思想につながる。

 チェーカの後身、KGBは1991年8月のクーデター未遂事件で解体され、ソ連も崩壊、社会主義は退場した。だが、KGBの人的ネットワークは健在で、いわゆる「シロビキ」(治安機関・軍部の実力者集団)を形成した。解体直前のKGBは推定で72万人もの人員を抱え、協力者は290万人に達していたという。

 プーチン氏がクレムリン入りした当時、ロシアは国家的危機に瀕していた。自らロシア国家を担う2000年明けの直前に出した「ミレニアム・メッセージ」で、彼は強硬なテロ対策をテコに「導き、統制する国家の再興を社会は望んでいる」と訴えた。

カラー革命・NATO拡大で協調から反米に

 冷戦終結後の10年間あまり、東西関係は良好だった。北大西洋条約機構(NATO)とロシアの間では、1994年6月に「平和のためのパートナーシップ協定」、1997年5月には「NATOとロシアの相互関係・協力・安全保障に関する基本決定」が結ばれた。

 主要国首脳会議に、ロシアは1994年の政治討議から参加し、2003年にはフルメンバーとなった(2014年のクリミア半島併合で「参加資格停止」処分)。

 ところが2004年、ウクライナで大衆運動が引き起こした「オレンジ革命」や、その他の旧ソ連構成国などで起きた「カラー革命」、さらに東欧7カ国が一気にNATOに加盟して、東西関係は暗転した。

 プーチン大統領は、米国が国際的な非政府組織(NGO)などに資金援助して、「民主主義の拡大」を進めたと非難、米中央情報局(CIA)に対する警戒を強め、反米に舵を切った。

FSB第5局が対ウクライナ秘密工作

 プーチン大統領は実は、それ以前から、情報機関の強化に努めていた。特に、「カウンターインテリジェンス(防諜)」を主要任務とするFSBの組織改革・強化を進めた。

 FSBは、2003年に国境警備隊(FPS、約21万人)を吸収合併。さらに、連邦政府通信情報局(FAPSI)を解体して、その主要機能をFSBに、軍事通信部門を国防総省に組み込んだ。

 かくして、FSBはKGBに似た総合的で大規模な情報機関に拡大していった。

 また、プーチン大統領は自分がFSB長官だった1998年に、第5局という新たな部門を設置した。外国人をリクルートする任務、さらに旧ソ連構成国に対するスパイ工作を行う権限を与えたというのだ。FSBは元々、国内の防諜機関として発足したのだが、その性格を変える程の大転換だった。

 第5局は発足から20年を経過して、旧ソ連構成国に対して、にらみを利かせるほどの強力な部門に発展していったと言われる。

 その局長にはプーチン大統領が最も信頼していたと言われるFSBの幹部、セルゲイ・ベセダ上級大将を任命した。しかし、ベセダ上級大将はその後、成果を挙げることができていなかったようだ。

 米外交誌『フォーリン・ポリシー』など米メディアにも寄稿するロシアの調査報道ジャーナリスト、アンドレイ・ソルダトフ氏によると、2014年の「マイダン革命」の際、ベセダ上級大将はウクライナやアブハジア、モルドバの現場で第5局の工作員が逮捕されるといった失態が表面化したという。

傀儡政権樹立へ稚拙な工作

 それにもかかわらず、プーチン政権は今回のウクライナ侵攻に向けた秘密工作で、第5局には、ウクライナの「政治インテリジェンス」収集と親露派野党勢力へのテコ入れ、という重要なミッションを与えたと言われる。

 第5局は今年2月までに、1チーム10~20人から成る特殊工作員計約200人をウクライナに派遣したとの情報もある。

 侵攻の直前に英外務省は、ロシアがゼレンスキー大統領の政権に代えて、親露派ウクライナ人の傀儡政権擁立を計画していると明らかにした。しかも傀儡政権を率いる人物としてエフヘン・ムラエフ元ウクライナ国会議員の名前も挙げた。ムラエフ氏の政党は2019年の選挙で規定の5%以上の得票がなく、ムラエフ氏自身も議席を失っている。英外務省はこのほか、ロシア情報機関と関係がある人物として4人のウクライナ政治家の名前を明らかにした。

 また英紙『フィナンシャル・タイムズ』(電子版)は2月14日「西側情報筋」から得た情報として、ウクライナの新しい指導者に親露派政党の元議員オレグ・ツァリオフ氏が就くと伝えた。

 彼はルハンシク州の「独立宣言」にかかわった人物で、『ワシントン・ポスト』によると、実際に侵攻開始の当日にSNSで、

「行動を起こした。ウクライナを非ナチ化する工作が始まった」

「私はキーウにいる。キーウはファシストから解放される」

 と書き込んでいる。

 しかし、2日後にはロシア軍の侵攻は予想外の抵抗に遭い、ツァリオフ氏は「心を失い始めた」と記した。

 いずれも断片的な情報しかないが、傀儡政権擁立の稚拙な動きがあったことが窺える。

 米『ニューズウィーク』や『タイム』も緒戦でゼレンスキー大統領の身柄が狙われたことを伝えている。

 しかし、恐らく米・英両国からの情報提供を得て、ゼレンスキー大統領は巧みに難を逃れたとみられる。

秘密工作はFSBからGRUに交代?

 明らかに、ロシアによるゼレンスキー政権打倒工作は大失敗に終わり、プーチン大統領の肝いりで発足したFSB第5局の起用は裏目に出た。

 この失敗で、第5局のベセダ局長は逮捕され、スターリン時代から使われている警戒が厳重なレフォロトボ拘置所で拘束されているという。工作員も約150人が解任されたと伝えられている。

 ベセダ局長は公務として、CIAとの「リエゾン・オフィサー」も担当しており、モスクワに駐在するCIA幹部との付き合いがあったと言われる。このため、CIAへの情報漏洩の疑いでも捜査を受ける可能性がある。

 FSB第5局はこの失敗で、プーチン大統領からウクライナ国内での秘密工作の任務を解かれ、今後はそれに代わってロシア軍参謀本部情報総局(GRU)が担当することになったという。

 今、クレムリンの内部では、多数ではないものの、ウクライナ侵攻を疑問視する声が出ていると伝えられる。プーチン大統領が自ら工作員のように振る舞い、出した指示の成否が問題視される可能性は今後も十分ありうる。ロシアの苦戦が続くと、情報機関の内部でも亀裂が生じるかもしれない。

 

カテゴリ: 政治 軍事・防衛 社会
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執筆者プロフィール
春名幹男(はるなみきお) 1946年京都市生れ。国際アナリスト、NPO法人インテリジェンス研究所理事。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授、早稲田大学客員教授を歴任。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『米中冷戦と日本』(PHP)、『仮面の日米同盟』(文春新書)などがある。
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