政治的なるものとは~思索のための1冊 (11)

「戦略的思考」に不可欠な人物を見抜く力――『安倍晋三 回顧録』の歴史的な意味(後編その2)

執筆者:橋本五郎 2023年7月16日
タグ: 安倍晋三
エリア: アジア 北米 その他
故・安倍晋三元首相の追悼集会であいさつする岸田文雄首相=7月8日、東京都港区の明治記念館 (C)時事
故・安倍元首相は、交渉相手や政敵の性格や立場をよく見極めていた。そこには、首相の人間関係が国益に直結するというリアリストとしての信念があった。ビジネスライクなオバマ、損得勘定で動くトランプ、“ジョーカー”小池百合子など、その人物評には本質を衝いたものも多い。

 

 政治家がすぐれた指導性を発揮し、政治的業績を挙げるための一つの必須要件は、置かれた時代、状況の的確な把握と相手プレーヤーに対する正確な認識だろう。『安倍晋三 回顧録』(中央公論新社)を読めばそのことの意味がはっきりわかる。日本の戦後政治史におけるこの書の歴史的な意義についてはこれまで幾度も触れてきたが、人物観察眼の確かさと鋭さも長期政権維持にとって欠くべからざる要件であったことを知るのである。

習近平はリアリスト、オバマはビジネスライク

 中国の習近平は、2013年3月に国家主席に就任してからもしばらくは、日中首脳会談を開いても、事前に用意された発言要領を読むだけだった。ところが5年ぐらい経つとペーパーを読まず、自由に発言するようになった。中国国内に、自分の権力基盤を脅かすような存在はもういないと思い始めたのではないかと感じていた安倍さんに、習近平は首脳会談の席で、驚くべき発言をした。

「自分がもし米国に生まれていたら、米国の共産党には入らないだろう。民主党か共和党に入党する」

 安倍さんは思った。習近平は政治的な影響力を行使できない政党では意味がないと考えている。中国共産党の幹部は建前上、共産党の理念に共鳴して党の前衛組織に入り、その後、権力の中枢を担っているということになっている。しかし、習近平の発言からすれば、彼は思想信条ではなく、政治権力を掌握するために共産党に入ったということになる。彼は「強烈なリアリスト」なのだ。権力基盤の確立とリアリストたる一面を示すエピソードとして、安倍さんが挙げたのが、18年10月に北京で行われた日中首脳会談での習近平の発言である。

 この席で習近平は、日本人拉致問題について、「解決の促進のために役立ちたい」と述べた。この発言は、日本側から事務レベルで働きかけ、その内容が文書に入ればいいと思っていたが、習近平自らが言及したことに、安倍さんは驚いたという。拉致問題は日朝二国間の問題であるというのが中国の基本的な立場だっただけに、習近平はもはや自由に発言できるだけの政治基盤を持っていると判断したというのである。

 その中国は今や、はばかることなく軍備増強や強引な海洋進出を繰り返している。日本はどう対応すればいいのか。安倍さんは海外出張し、外国首脳と会うたびに中国を警戒するよう説いた。それが中国に伝わることを百も承知で言ったのは、中国という国をこう考えていたからである。

 こちらが勝負を仕掛けると、こちらの力を一定程度認めるところがあるのではないか、と思うのです。日本もなかなかやるじゃないか、と。そして警戒し、対抗策を取ってくる。
 中国との外交は、将棋と同じです。相手に金の駒を取られそうになったら、飛車や角を奪う手を打たないといけない。中国の強引な振る舞いを改めさせるには、こちらが選挙に勝ち続け、中国に対して、厄介な安倍政権は長く続くぞ、と思わせる。そういう神経戦を繰り広げてきた気がします。将棋を指しても、盤面をひっくり返すだけの韓国とは、全く違います。

 アメリカのバラク・オバマ元大統領のエピソードも、政治家オバマの本質を衝いている。2014年4月、オバマが来日した。日米首脳会談では、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉について日本側に譲歩を迫り、銀座の高級寿司店「すきやばし次郎」での夕食会が始まるや、「安倍内閣の支持率は60%。私の支持率は45%だ。シンゾウの方が政治的基盤が強いのだから、TPPで譲歩してほしい」といきなり切り出した。この店に来るまでアメリカ車を1台も見ていない、何とかしてもらわないと困るというのである。オバマに、アメ車に関税なんかかけていないと言うと、「非関税障壁があるからアメ車が走っていないんだ」と譲らない。

 そこで安倍さんはオバマを外に連れ出す。銀座では、BMW、ベンツ、アウディ、フォルクスワーゲンなど外国車はいくらでも走っている。しかし、アメ車の姿はない。なぜか。みんな右ハンドルに変えているのに、アメ車は左ハンドルのまま売ろうとしているからだ。テレビのコマーシャルをアメ車は出していますか。東京モーターショーに出展していますか。「そういう努力をしていただかなければ、売れるはずがないでしょう」とたたみかけると、オバマは黙ってしまった。

 ここからは、せっかく寿司屋に連れて行っても、寿司を味わう前に、すぐ仕事の話をする、そんなビジネスライクなオバマの姿が浮かぶ。ならばこちらも具体的な事実で対抗しようと、「右ハンドル」や「CM」「モーターショー」などの“小道具”を駆使した。一見、ささいなエピソードのようにも見えるが、どう説得するかは直接国益に関わることなのである。

トランプは軍事行動に消極的

 オバマと対照的なのがドナルド・トランプとの関係だ。相性がいいか悪いかではない。好きか嫌いかでもない。政治信条に賛成か反対かでもない。政治手法に同意するかどうかでもない。ひとえにトランプがアメリカの大統領であり、どういう関係かは国益に直結するのだ。著名な投資家、ジョージ・ソロスが来日した際、「そんなにトランプと仲良くしたら、いろんな批判を受けますよ」と忠告された。安倍さんは反論した。

「トランプを選んだのは、あなたたちでしょう。私たちではない。米国は日本にとって最大の同盟国だ。同盟国のリーダーと日本の首相が親しくするのは、当然の義務です」

 まさに「虎穴に入らずんば虎子を得ず」である。2016年の米大統領選では、外務省も含めてほとんどヒラリー・クリントンが勝利すると予測していた。しかし、安倍官邸はトランプの当選が決まってすぐ、当選祝福の電話をし、ニューヨークのトランプタワーで会う約束を取り付けた。次期大統領と会うのは外交上、現職のオバマに失礼なことである。だから仁義は切った。オバマ側は「会食だけはやめてくれ」「報道陣を入れて撮影させるのはだめだ」などいろいろ注文を付けたが、同意せざるを得なかった。

 安倍さんにはいち早くトランプに会って説明しなければならないことがあった。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
橋本五郎(はしもとごろう) 『読売新聞』特別編集委員。1946年秋田県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、読売新聞社に入社。論説委員、政治部長、編集局次長を歴任。2006年より現職。『読売新聞』紙上で「五郎ワールド」を連載するほか、20年以上にわたって書評委員を務める。日本テレビ『スッキリ』、読売テレビ『ウェークアップ!ぷらす』、『情報ライブミヤネ屋』ではレギュラーコメンテーターとして活躍中。2014年度日本記者クラブ賞を受賞。著書に『範は歴史にあり』(藤原書店)『「二回半」読む――書評の仕事1995-2011』(以上、藤原書店)『不滅の遠藤実』(共編、藤原書店)『総理の器量』『総理の覚悟』(以上、中公新書ラクレ)『一も人、二も人、三も人――心に響く51の言葉』(中央公論新社)『官房長官と幹事長――政権を支えた仕事師たちの才覚』(青春出版社)など多数。
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