政治的なるものとは~思索のための1冊 (12)

徹底した「官僚不信」の根底にあるもの――『安倍晋三 回顧録』の歴史的な意味(後編その3)

執筆者:橋本五郎 2023年9月24日
タグ: 安倍晋三
エリア: アジア
看板の特徴ある文字は、安倍氏が重用していた稲田氏による揮毫[左から加藤勝信内閣人事局長、稲田朋美内閣人事局担当大臣、安倍晋三首相、菅義偉官房長官(肩書はいずれも当時)=2014年5月30日、内閣人事局発足式にて](C)時事
歴代の首相は、財務省を筆頭とする官僚組織との良好な関係に留意しながら政権運営を行った。官僚との対決などは、政権の体力を消耗するだけの「危険」な行為だと考えていたからだ。そんな中、徹底した「官僚不信」を抱き続けたのが故・安倍氏だった。異例の長期政権下で、官邸と官僚は互いをどう見ていたのか。

 政治家と官僚の関係はどうあるべきか。大平正芳元首相に「大臣と役人」という印象深い文章がある。『大平正芳全著作集2』(講談社)に収録されている。少し長くなるが、その大意をご紹介しよう。

 大臣は役所の主人公たる虚名をもってはいるが、事実はその役所の仮客にすぎない。仮客である以上は、物判りのよい大臣として、役人衆に親しまれたくなるに決まっている。そういう立場とメンタリティをもった大臣に、大きな改革を求めるのは、求める方が無理である。はじめのうちは、政治家らしい改革意図を失わないつもりで気負っていても、やがて彼は身心ともにその役所のミイラになってしまう。自分の名誉と生涯の運命を賭けた役所の存亡に、役人衆が無関心であるはずがない。私の大臣に対する提言はこうである。もともと公務員制度や行政機構にまつわる大きい改革意図などはお持ちにならない方が無難である。改革意図を振り回すなどということはなおさら危険である。

 昭和31年(1956)に書かれたものだが、大平の生涯変わらぬ政治哲学だった。大上段に「大義」や「原則」を掲げ、進軍ラッパを奏でて突き進むのではなく、人間には限界があることをよく自覚して、常に「韜晦」の気持ちで政治に臨んでいた大平らしい。いささかシニカルな表現ではあるが、そこには「諦観」さえ漂っている。

森友問題でさえ財務省の「陰謀」を疑っていた

安倍晋三 回顧録』(中央公論新社)をまとめながら、よぎったのは大平のこの文章だった。回顧録全体を貫く主旋律の一つが「官僚不信」であり、官僚的論理と対決して政治主導を取り戻そうという強い使命感さえ感じ取ることができた。大平とは対極にあるものだ。安倍の攻撃の刃はとりわけ「役所の中の役所」である財務省に向けられた。

 安倍は2014年11月、15年10月からの消費税10%への引き上げを1年半先送りするとともに、「国民経済にとって重い決断をする以上、国民の信を問うべきだ」として衆院解散を表明した。増税延期という国民受けする政策変更を解散理由にするなどというのは、かなり狡猾な手法だった。その理由について回顧録ではこう述べている。

 消費税を上げたら一気に景気が冷え込んでしまう。だから何とか増税を回避したかった。しかし、予算編成を担う財務省の力は強力です。彼らは、自分たちの意向に従わない政権を平気で倒しに来ますから。財務省は外局に、国会議員の脱税などを強制調査することができる国税庁という組織も持っている。(中略)増税論者を黙らせるためには、解散に打って出るしかないと思ったわけです。これは奇襲でやらないと……(後略)(p148~149)

 安倍は解散の意向を谷垣禎一幹事長(肩書は当時、以下同)に伝えるとともに、麻生太郎副総理兼財務相には、豪州からの帰りの政府専用機に同乗してもらって説得した。麻生は解散には賛成だったが、増税先送りには反対だった。これに対して安倍は、景気次第で増税を見送る「景気条項」は撤廃する(景気に関わりなく増税する)と麻生に約束することで了解を取り付けた。このとき実は財務省は陰で安倍政権打倒に動いた、という衝撃的な事実を回顧録で初めて明らかにした。

 財務官僚は、麻生さんによる説得という手段に加えて、谷垣禎一幹事長を担いで安倍政権批判を展開し、私を引きずり下ろそうと画策したのです。前述しましたが、彼らは省益のためなら政権を倒すことも辞さない。(中略)谷垣さんは財務相経験者だし、主張は増税派に近い。けれども、財務省の謀略には乗らなかったのです。政治の不安定化を招くようなことを嫌ったのだと思います。(p311)

 財務省の動きを猜疑の目で見る安倍にとって財務省は、

「目先の政権維持しか興味がない政治家は愚かだ。やはり国の財政をあずかっている自分たちが、一番偉い」という考え方なのでしょうね。国が滅びても、財政規律が保たれてさえいれば、満足なんです。(中略)増税先送りの判断は、必ず選挙とセットだったのです。そうでなければ、倒されていたかもしれません。(p312~313)

ということになる。そして森友問題さえ財務省の陰謀の臭いがすると疑った。

 私は密かに疑っているのですが、森友学園の国有地売却問題は、私の足を掬うための財務省の策略の可能性がゼロではない。財務省は当初から森友側との土地取引が深刻な問題だと分かっていたはずなのです。でも、私の元には、土地取引の交渉記録など資料は届けられませんでした。森友問題は、マスコミの報道で初めて知ることが多かったのです。(p313)

 田中角栄や竹下登など歴代首相は、大蔵省(財務省)と良好な関係を築きながら政権運営を行ってきた。財務省の協力があってこそ政権運営がスムーズにいくと思ったからであり、敵視するなどということは政権の体力を消耗するだけと考えたからだ。安倍とて最初から「財務省嫌い」だったわけではない。回顧録では、民主党政権による東日本大震災後の増税が決定的だったと語る。震災によるダメージがあるのに増税するなどということは間違っている。そう思って浜田宏一エール大名誉教授らと勉強会を重ね、日銀の金融政策や財務省の増税路線は間違っていると確信したという。

内閣人事局が「忖度文化」を生んだ?

 安倍の「官僚不信」は財務省に限らない。憲法解釈による集団的自衛権の行使を可能にすることに抵抗した内閣法制局長官を更迭、小松一郎駐仏大使を起用した。外務省に対しても、相手国への配慮を考えるあまり、どこまで日本の国益を考えているのかという疑念が去らなかった。新型コロナウイルス対策では、PCR検査を増やすよう指示しても、厚生労働省の医系技官の抵抗の前に打つ手がなかったことを回顧録で告白している。

「官僚主導」への安倍の対抗手段の拠点となったのが、2014年5月に設置された内閣人事局だった。国家公務員幹部職員の人事を首相官邸が一元的に管理するもので、これが安倍政権を長期たらしめた基礎にもなった。内閣人事局ができたことで官僚が官邸首脳の顔色をうかがう悪しき文化をつくってしまったという批判に、安倍はこう反論した。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
橋本五郎(はしもとごろう) 『読売新聞』特別編集委員。1946年秋田県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、読売新聞社に入社。論説委員、政治部長、編集局次長を歴任。2006年より現職。『読売新聞』紙上で「五郎ワールド」を連載するほか、20年以上にわたって書評委員を務める。日本テレビ『スッキリ』、読売テレビ『ウェークアップ!ぷらす』、『情報ライブミヤネ屋』ではレギュラーコメンテーターとして活躍中。2014年度日本記者クラブ賞を受賞。著書に『範は歴史にあり』(藤原書店)『「二回半」読む――書評の仕事1995-2011』(以上、藤原書店)『不滅の遠藤実』(共編、藤原書店)『総理の器量』『総理の覚悟』(以上、中公新書ラクレ)『一も人、二も人、三も人――心に響く51の言葉』(中央公論新社)『官房長官と幹事長――政権を支えた仕事師たちの才覚』(青春出版社)など多数。
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