東京電力福島第一原発事故から10年を経て、ようやくの審判を待つ人々がいる。いまも帰還困難区域とされる福島県浪江町・津島地区。豊かな山里の暮らしと人の絆を奪われ、その責任の所在も明かされぬまま避難生活を強いられた住民の約半数が、「ふるさとを返せ」と6年前、国と東電を福島地裁に訴えた。判決は、東京オリンピック開幕後の今月30日。「復興五輪」の幻夢からも、コロナ禍の都会の喧騒からも遠い「被災地」の終わりなき現実を訪ねた。
高い放射線量の中に捨て置かれた体験
猛暑の福島市内から国道114号線を東に約1時間。のどかな阿武隈山地の道に「帰還困難区域」の立て看板が現れる。福島第一原発(福島県双葉町・大熊町)から西北西約30キロにある、浪江町津島地区の入り口だ。車はこの先で大型テントのスクリーニング検査場を通り、同乗させてくれた地元の住民、佐々木やす子さん(66)と三瓶春江さん(61)が、筆者を含めた立ち入り申請をした。
佐々木さんは中通りの大玉村、三瓶さんは福島市に現住所を持ち、自宅を訪れるにも面倒な手続きを要する。近隣の家は「蛇腹」と呼ばれるバリケードで閉ざされ、原発事故から10年が過ぎてなお、人の往来をものものしく拒む帰還困難区域の風景があった。
現地で合流したのは、行政区長の今野秀則さん(73)と、武藤晴男さん(64)。いずれも「福島原発事故津島被害者原告団」(218世帯、643人)のメンバーで、今野さんは原告団長、武藤さんは事務局長を務める。郡山市民で「津島原発訴訟を支える会」共同代表の吉川一男さん(81)も同行した。
山手線の内側の面積の1.5倍という津島地区は緑濃い山々に抱かれ、約450世帯、約1400人の住民はコメ作りやタバコ栽培、酪農を中心に、「結」(地域の人々が農作業や大切な行事などを共同で行う慣行)の伝統を色濃く映す「津島の田植踊」(県重要無形民俗文化財)などの芸能も大切に守りながら代々暮らしてきた。
2011年3月11日の東日本大震災では、当日夕方から津波被災地となった沿岸部など町内から8000人を超える避難者が津島に殺到し、住民たちは総出で地元の小中高校や公民館、お寺、神社、自宅などに受け入れ、温かい食事を提供し、一晩中暖を絶やさず支援をしたという。唯一の医療機関だった津島診療所には、常備薬を置いてきた年配者らの長い列ができ、医師、看護師が懸命の対応を続けた。
福島第一原発はこの時、津波による被害で冷却機能を喪失し、メルトダウン(炉心溶融)の危機に陥った。国は12日までに半径10キロ圏までの避難指示を出したが、立地自治体でない浪江町には国、東電、県から危険を知らせる情報が届かず、馬場有町長(故人)は独自に役場機能を津島地区の支所に移転。14日に起きた原発の3号機原子炉建屋の水素爆発事故を機に全住民の避難を決断し、翌15日朝の対策本部会議で、区長の1人として出席した今野さんらに指示を下した。
「『今の状況下でも国、県から一切の情報はない。テレビの情報、他町の避難状況を見て、われわれも避難せざるを得ない。(原発から)半径30キロ圏外の二本松市方面へ、みんな避難しよう』。馬場町長のそんな言葉に背中を押され、私は地元の50戸を急いで回り、家族を福島市の妻の実家に送り出し、避難したのは翌日。その間、住民は何も知らされぬまま、高い放射線量の中に置かれた」
苦しみ続ける被災者の「ふるさとを返せ」という想い
国は放射性物質の拡散を予測する「SPEEDI」(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)を稼働させ、第一原発から、津島のある北西方向へ放射性物質が流れると予測したが、福島県との連絡の不手際などで役に立たなかった。また東電も第一原発敷地で放射線量を測るモニタリングポストを設けていたが、津島の方向を示すポストで「13日午前9時までに限っても548回の測定値を得た。東電は13日午前9時以降に測った値は明らかにしたが、それまでの548回の分は5月28日まで公表しなかった。548回の中で最高値だった3月13日午前8時33分の毎時1204マイクロシーベルトも長らく世に出なかった」(2011年11月9日の河北新報より)。
津島の住民たちは避難者の支援をしている間、白い防護服と、原子炉で作業をするようなマスクを着けた一団を目撃していた。高線量であることを知っていて調査をしていたのではないか、と住民たちは考えている。後になって、地区内で3月16日、58.5マイクロシーベルト毎時の線量が計測されたという事実を知ったからだ。
「あの人たちが、目の前の私たちや避難者に『ここは危険だ。子どもを連れて早く、もっと遠くへ逃げて』と言ってくれていたら。国は3号機爆発の後も、『直ちに身体的影響はありません』とテレビで繰り返すばかりだった」と三瓶さんは話す。
浪江町は二本松市東和町に仮庁舎を置き、大規模な仮設住宅、小中学校の仮校舎を開設し、住民たちを懸命に守った。避難は家族を離れ離れにし、行く先は県内外の47都道府県に及び、町は無人となった。とりわけ高線量だった津島地区は13年4月に帰還困難区域となり、他地区が国の除染作業を経て17年3月末に帰還可能となった後も、バリケードの中に閉ざされたままだ。今野さんは言う。
「地区のみんながばらばらになっていく。あまりの理不尽。それでいいのか、という危機感が募っていった。離散した住民たちに横の連絡と議論の場づくりを求める声が上がり、多くが『ふるさとを返せ』という思いで一つになった」
地元町議や今野さんらが中心になって「福島原発事故の完全賠償を求める会」を14年11月に発足させ、15年には原告団を組織し同年9月、国と東電を相手取り福島地裁郡山支部に提訴した。
裁判に第一に求めたものは、「国策であった原発事故でふるさとを汚され、戻れなくなった現実とその責任を国と東電に認めさせる」ことだという。その上で、帰還困難区域として放置することなく、原発事故前のふるさとに戻すための除染を訴えた。
併せて、住民が何の情報も教えられぬまま高線量にさらされ健康被害を受けたこと、避難を強いられたことへの慰謝料、完全除染が不可能な場合の「ふるさと喪失」への慰謝料を求めた。
16年5月の第1回裁判から今年1月の結審まで、今野さんらは33回にわたり法廷に通った。延べ32人の住民が各地から集って意見陳述をし、40人が原告本人尋問に立ち、思いの丈を涙と怒りとともに訴えた。吉川さんらが全国に応援を広げて、公正な判決を求める署名は8万3千筆に上る。
被災者の精神ケアのクリニックを近隣の相馬市で運営する蟻塚亮二医師は、19年、原告団の求めで津島住民の「震災ストレス」を調べた(対象は620人、回答率82.7%)。その結果、原発事故から8年後の時点でもほぼ5割の人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)のハイリスク状態にあり、これまでの国内の災害の中で最も高いことが分かった。「今いる土地が、自分が本来居るべき場所ではない」という孤立感、放射線への絶えざる心労、将来の健康への不安、避難先で「いじめ」の問題もあった子どもたちへの自責の念などに、避難者たちは苦しみ続けた。
今野さんも「かつての面影を失っていく家と田畑の変貌に落胆し、増してゆく現実の重みに『前を向いて生きる』ことが難しくなる」と憂える。避難生活の中で亡くなった原告団の仲間は50余人を数え、また津島の寺で福島市の避難先に「別院」を開いた長安寺には、約100柱もの遺骨が帰れぬまま預けられているという。
支え合った「結」の村
現在は福島市にいる三瓶さんの自宅を訪ねた。国道沿いの高台にある家への登り道には、行く手を阻むように雑草が伸び、崩れた山の水路からの流れが玄関前を水浸しにしている。「ここは水が豊かな土地だけれど、それが災いして部屋という部屋の床を腐らせている」と三瓶さん。避難後、10人の大家族が6カ所に分かれて暮らした時期もあるといい、玄関の柱に子どもや孫の成長を刻んだ傷も途中で途絶えた。どの部屋も床が抜けて家具類が倒れ、台所では天井にも大穴が開いて雨水が滴り、締め切った家をおびただしい湿気が内側から朽ちさせている。
家のまわりには山菜のフキが丸い葉をおびただしく広げている。が、いまも土壌は高濃度の放射性物質を含み、採ることはできない。三瓶さんはそれを惜しむように眺めた。
「フキは津島の主食のようなものだった。春はフキノトウ味噌を作り、旬の時期の油炒りはもちろん、塩漬けにして一年中食べた。キノコも豊富で、マツタケも多く採れた。そんな山の料理を近所や親戚の家々が持ち寄り、季節の初物が出れば互いに届けた。そんな毎日が、津島の人の絆を編み上げていた」
「どこの家も、ふすまを外せば広間ができた。田んぼ仕事は『結』で支え合い、朝、昼のご飯も一軒ずつ持ち回りでごちそうした。結婚式、葬式も自宅で行い、大勢の人が集った。原発事故が起きるまで、ここでは、そんな暮らしが生きていたの」
17年3月に、放射線量が少なかった浪江の町場は除染後に国から避難指示を解除され、帰還困難区域の津島でも、旧役場支所や商店、旅館があった中心部の153ヘクタールが「特定復興再生拠点区域」に指定された。その区域では家が解体・撤去された更地、除染され山砂が敷かれた水田が目立つ。国は、津島と他地区の室原、末森(いずれも帰還困難区域)に上下水道や水利施設、農地を整備し、約1500人の居住を計画しているという。しかし、山林が大半を占める津島では、「特定復興再生拠点区域」の面積は地域のわずか1.6%に過ぎない面積だ。人のつながりも失われた中で誰が、どうやって暮らすのか。山の自然の力に再びのみこまれたような帰還困難区域の現実を放置し、そうさせた者の責任をあいまいにして新たな国策が進められることに、武藤さんらは憤りを感じている。
武藤さんの家の庭には、真新しい色の山砂が敷かれていた。復興拠点とは別に、地区の幹道に沿った家や田畑を除染する国の方針によるものだ。しかし、見た目はきれいにされても、住むことができない矛盾に武藤さんは悩む。家の中は、足の踏み場もないほど家財類が散乱していた。
「最初は何度も避難先から帰って泊まったが、イノシシに侵入されてめちゃめちゃに荒らされ、気持ちががっくり落ちた」と武藤さん。原発事故前には家のそばに広い畑を営んだが、いまは背丈よりはるかに高いササ竹がジャングルのように繁茂する。まわりはかつて広い美しい水田だったが、それも見渡す限りの原野に戻った。雑木雑草のため玄関にさえたどりつけない家も多いという。
武藤さんの父次男さんは戦前、津島から中国に出征し、戦後は鍬を振るい農地を拓いた。三瓶さんの両親も旧満州に渡り、引き揚げ後は開拓団として津島に根を下ろした。住民の3分の1は入植者の家系と聞いた。三瓶さんはこう訴える。
「津島は、先祖代々の住民が新しい開拓の民を受け入れた。分断を生じさせた話など伝わっておらず、協力し合ってつくった村。それが先祖たちの立派さ、心意気だった。それを壊した原発事故への私たちの怒りがある。汚されたままでは未来に渡せない。その責任を問いたいのです」
判決まであと1週間となる23日、「復興五輪」の名で招致された東京オリンピックが開幕する。コロナ禍に翻弄されて、その看板さえ忘れられた。津島の人々にとっては「遠い世界の出来事」。喧騒の中で被災地が忘れられぬよう、福島から声を全国に発したいという。