没後7年 “婦唱夫随”の夫人が明かした「菅原文太の真実」

執筆者:松田美智子 2021年11月28日
カテゴリ: カルチャー
2014年に亡くなってから7年、俳優・菅原文太の魅力は色褪せることはない(©新潮社写真部)
菅原文太がこの世を去って7年が経った。『仁義なき戦い』『トラック野郎』の大ヒットシリーズの印象が強烈だが、その素顔は役柄とはだいぶ異なっていたようだ。ドヤ街暮らしから一転、ファッションリーダーとなった若き日々。下積み時代の意外な縁。そして夫人だからこそ知るエピソードを、ノンフィクション作家の松田美智子氏が紹介する。

 本年11月28日は、菅原文太の8回目の命日である。

 文太が目標にした高倉健は、奇しくも同じ年の11月10日に逝去しており、昭和の大物スターの相次ぐ訃報に落胆されたファンも多いことだろう。

 高倉は孤高が似合うスターだが、文太は『仁義なき戦い』に代表される群衆劇、あるいは『トラック野郎』や『まむしの兄弟』シリーズなどのコンビ物で輝いた。高倉が去ったあとの東映を支えたのは、文太と言っても過言ではない。

 今年6月に上梓した『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社刊)では、文太の俳優人生に焦点を絞った。今回は文太の生涯の伴侶であり、マネージメントも担当していた文子夫人の証言を交え、彼に大きな影響を与えたシーンを中心に据えて、81年の人生を振り返る。

 

家を出た母に代わって文太を支えた祖母

 1933年8月16日、文太は宮城県仙台市で生まれた。父の菅原芳助は地元の新聞社「河北新報」の記者で、文太は長男、一歳違いの妹がいる。兄妹の境遇に大きな変化があったのは文太が3歳の頃。両親が離婚し、母親が家を出て行ったのだ。

 この事実が文太の心に癒しがたい傷を残す。

 妻が去ったあと、芳助は、幼い子供たちを実家に預けることにした。実家は栗原郡一迫町(現・栗原市一迫)にあり、地域では有名な豪農の家だった。

「一迫で暮らした歳月は彼の心身を鍛え、生きる上での大事な骨格を作ったと思います」

 そう語るのは文子夫人である。実家には従兄弟にあたる男の子が3人いて、文太を子分扱いにした。居候のような肩身の狭い思いだったが、祖母が慰めてくれたという。

「祖母は心温かな人だったようで、誰もが言葉の端々に人柄を懐かしんでいました。その庇護の下にあったことは夫にとって幸せです。実家は町一番の土地持ちだったようで、近隣の人から見たら夫も豪農の家の坊ちゃん。その大らかさが彼には残っていました」

 実際、文太はこの祖母に対し感謝の言葉を語っている。

〈一迫時代の俺の心の支えはお祖母さんだった。自分の満たされない色々な思いを、あのお祖母さんがかなり埋めてくれた〉(「BIG tomorrow」89年4月号)

モデルから「ハンサムタワー」の一員に

 県立築館中学を卒業した文太は、宮城県の名門校・仙台一高に入学。同級生によれば、この頃の文太は黒縁の眼鏡をかけた目立たない存在で、服装も、父親が戦時中に着ていた軍服や将校マント、コートなどで通学していたという。確かに、一高時代の文太の写真を見ると、のちにモデルデビューするとは想像できないほど、地味な容姿である。

 一高からは東北大学を受験したが不合格になり、一浪したのち早稲田大学第二法学部に進学。だが、学費を滞納した結果、2年で除籍になった。その間には様々なアルバイトを経験し、山谷のドヤ街で寝泊まりしたこともある。運気が開けて来たのは、ファッションモデルのアルバイトをしたときだった。そこで「婦人画報増刊 男の服飾」(のちの「メンズクラブ」)の編集長・熊井戸立雄から「雑誌のモデルに」と声を掛けられたのだ。文太は専属のモデルになり、石津謙介のファッションブランド「VAN」の製品を着用するようになった。

「夫は『これは良い仕事にありついた』とモデルの仕事で思ったそうです。仕事帰りに『おい、これもらっていくからな』と気に入った服を持ち帰ったりしても泥棒扱いされなかったのは業界が寛容だったのか、彼の人徳だったのか分かりません」(文子)

 モデルの経験からか、文太がおしゃれだったという証言は多い。元スポーツニッポン記者の脇田巧彦は、「格好いい男でしたよ」と振り返る。

「何を着ても似合う。安っぽいものを着ていても様になるんですよ。それに小顔でしょ。昔の俳優の顔は大きいんだけど、あの人は小顔のスターの第一号じゃないかな」

 だが、妻の文子は「夫の服装は職業上のみだしなみ程度」という。

「流行はどこ吹く風、ブランドにも無関心、幅広のネクタイが流行ると、逆らって細目のネクタイを締めていました。そんな些細な抵抗を周りの誰も気にしませんでしたが、本人的には『流行を追えばそれは人真似、付和雷同』でした」(文子)

 若い頃から楽な服が好きで、ジャケットなどはアームホールがゆったりした製品を置いている輸入専門店をひいきにしていたという。

「夏ならダボシャツに雪駄。一流ホテルには出入り禁止になりそうな服で歩き回っていました。その辺は野面、ずうずうしく自分流で暮らしていました」

 そうは言っても、若い頃の文太がファッションリーダーだったことは間違いない。

 文太が新東宝の宣伝部員に声をかけられたのは58年、銀座の喫茶店で、リーゼントに赤いジャンパーという派手なスタイルでモデル仲間と騒いでいるときだった。

 映画出演を打診された文太は、即座にOKしたが、喜んだそぶりはない。

〈意志薄弱だったから、映画なんて始めたんですよ。意志が強くて、苦労して大学出ていたら僕は俳優なんてやっていないよ〉(「週刊サンケイ」78年1月5・12日号)

 これは東映の看板スターになってからの発言だが、以後も「俳優になりたくてなったのではない」という言葉を繰り返し語っている。

 新東宝での文太は、会社の方針により吉田輝雄、寺島達夫、高宮敬二ら高身長の俳優を集めた「ハンサムタワー」の一員となった。新東宝で文太が出演した映画本数は20本。出演料は安く、しかも遅配が続いた。そして、3年後の61年8月、会社は事実上の破産を迎えた。

 失業を覚悟したものの、「ハンサムタワー」に注目していた松竹から話があり、運よく移籍することができた。61年秋には、篠田正浩監督作品『三味線とオートバイ』に出演している。だが、この撮影で、新東宝時代から続く遅刻癖が出た。

〈撮影の前夜、女と銀座で飲んで、そのまましけこんで、翌日は昼ごろまで寝ていた〉(「週刊アサヒ芸能」76年9月30日号)

 監督やスタッフを怒らせ、クビになる可能性もあったが、主演の川津祐介がとりなしてくれたおかげで、なんとか撮影に参加することができた。二作目の出演作品は、同じく川津祐介主演の『学生重役』(監督・堀内真直・、61年)。移籍して間もないのに、文太は不満を募らせていた。同作で共演した三上真一郎の前で心情を吐露している。

〈「こんな筈じゃなかったんだ! (中略)こんなことになるんだったら、松竹に来るんじゃなかった。約束が違う。約束が違うんだ。松竹は冷たい」〉(「映画論叢」12号」)

 そう言ってすすり泣いたという。このとき文太は28歳になっていた。

木下惠介監督、そして安藤昇との出会い

 個性の強い俳優を好まなかった松竹だが、移籍から3年目の63年、文太は木下惠介監督にその個性を見出され、鬱積した思いが炸裂するような作品に出演した。木下監督が原作・脚本の『死闘の伝説』である。文太はこの作品で冷酷かつ非情な村長の息子を演じ、社内外で注目されている。演技に目覚めた文太は65年までに27本の作品に出演し、同年28本目の『血と掟』(監督・湯浅浪男)で、生涯の恩人となる安藤昇と出会う。

 この映画は安藤の自叙伝『激動』を映像化したもので、安藤が自身の人生を演じたこともあり、大ヒットした。出会いから間もなく、安藤の人柄に魅せられた文太は、安藤が経営するサパークラブに出入りするようになり、公私ともの付き合いが始まった。面倒見のいい安藤に目をかけられるようになったことで、文太の俳優人生は大きな転換期を迎えた。

 67年、安藤は東映のプロデューサー俊藤浩滋に乞われて、移籍を決める。そのあと安藤は、文太にも移籍のチャンスを与えたのである。安藤に誘われて、東映東京撮影所に足を踏み入れたとき、文太は「こここそが、俺の生きる場所だ」と直感したという。

 文太が安藤の後を追って移籍したのは67年秋、34歳になっていた。当初は大部屋俳優の扱いで、高倉健は雲の上の存在だった。梅宮辰夫が生前、当時の文太を回想した。

「俺たちから見たら、ああ、もう流れ流れて行くところがなくて(東映に)来たのかという感じだったの。文ちゃんの一番最初のイメージはね」

 移籍から2年後の69年、文太は文子(当時の名前は文)と結婚。文太の東映での初主演作は同年の『現代やくざ 与太者の掟』(監督・降旗康男)だったが、裏話がある。若山富三郎の付き人だった竹垣悟が内情を語っている。

〈本当は待田京介主演の予定で、『恐喝の街』というタイトルまで決まっていたのが、若山は『オレはギャラはいらんから文太を男にしたってくれ』と俊藤プロデューサに掛けあい、主役が交代になったという話でした〉(「週刊アサヒ芸能」2015年1月15日号)

 若山の庇護もあって、以後は年ごとに出演作が増えていく。鶴田浩二や高倉健の任侠路線には乗り遅れたものの、東映には新たなムーブメントが起きようとしていた。『仁義なき戦い』に代表される実録路線である。仁侠映画が受けたのは、日本が高度経済成長をひた走っていた時代だが、実録路線の隆盛は経済が冷え込み、会社のための滅私奉公が意味をなさなくなった時代である。

 当時、東映本社宣伝部次長だった小野田啓は、同作のヒットをこう分析している。

〈組のため親分のために人殺しまでして刑務所に入って出てきたら、みんな(中略)それぞれ独立して一派をなしてるのに、文ちゃん扮する広能昌三は身の置き場がないという状況とピッタリ重なっていた。誰を信じていいのか、信じる相手がいないという時代を、まさに『仁義なき戦い』は反映していたわけですね〉(「週刊アサヒ芸能」2013年3月6日号)

 なぜヒットしたのかについて、主役を演じた文太の答えはシンプルだ。

〈いろいろ意味づけをする人はいるけど、単純に面白いからじゃないかな〉(同)

 続いて『トラック野郎』シリーズでもヒットを飛ばし、押しも押されもせぬ東映の看板スターにのし上がった。デコトラの団体「哥麿会」の三代目会長田島順市は、文太の痩せた体型がトラック運転手に合っていたという。

「あの頃は早く荷を届けるために、みんな寝ずに走ったからね。デブはいないんですよ」

 生涯を通じてスリムな体型を保った文太だが、どんな身体の鍛え方をしていたのだろうか。文子夫人は「何よりよく歩いていた」と語る。

「誰もがひたすら歩いた時代に育ったので、歩くことを苦にしませんでした。ジムと違ってお金もかからないし。『日本人の相撲取りが弱くなったのは、歩かなくなったせいだ』と言ってました。家でサンドバッグを叩くこともありました。恵まれた頑丈な体質で、酒をあれほど飲まなかったら、もっと長生きしたのに惜しい」

 食事については特に制限はせず、「食べ物を残すな、と親や教師から口うるさく言われて育ったので、ホタテ貝以外の好き嫌いは無し」だったという。また、戦時中の飢えを経験した世代のせいか、「グルメ番組と大食い番組を見ると『消せ』の一言です」

ボランティアに精を出した晩年

 80年代に入り、文太が東映を離れた頃から文子はマネージメントを担当し、社長と呼ばれるようになった。携帯電話が登場したのは80年代の後半だが、最初から二人で一台を使用。それでまったく不自由はなかったという。

「大半の人生が過ぎた後に携帯電話を手にした者にとっては、固定電話をバッグに入れているのと同じ感覚です。携帯を二人がそれぞれ持つほど忙しくもなく、緊急の連絡が入る職業でもなし。無駄な金を商戦に乗って使いたくありません」

 仕事の合間を縫って、文太はいくつものボランティア活動に参加した。難病と闘う子供たちへの支援、在日韓国人の老人ホーム建設、元受刑者たちの生活支援、山谷での定期的な炊き出しなど多彩だ。有名人が表に立つことで集まった募金も多かっただろう。自分の顔と名前が役に立つのならばと、著名な友人たちに声をかけ、ゴルフのチャリティも主宰した。

 付き人だった宇梶剛士は、「菅原文太は弱者を応援するんです!」と誇らしげに語ったが、文子夫人は、文太の骨格に備わっている人情がそうさせたのだという。

「人として当然のことではないでしょうか。特別のことではありません」

 文太の人生には何人かの恩人がいる。出会いと別れを繰り返すのが人生だが、なかでも忘れてならないのは、安藤昇と俊藤浩滋だろう。

「安藤昇様、俊藤浩滋様、どちらも大恩人です。感謝の思いを忘れたことがないのは当然ですが、疎遠になってしまったことは悔いがあったと思います。『わが人生に悔いなし』という歌がありますが、そんな人います?」

 晩年には叙勲の打診もあったが、夫婦とも勲章には興味がないので断った。

〈夫は国家のためと思って行動したことのない人。それなのに国から勲章をもらったら、おかしいですよ〉(「サンデー毎日」2016年5月29日号)

 また、マスコミには「故郷にはいい思い出はひとつもない」などと語っていた文太だが、実際は違っていた。

〈彼がいつも楽しそうに話していたのは、ドジョウを獲ったり、ウナギを釣ったり、農耕馬に乗ったりして遊んだ宮城での子供時代の話でした〉(同)

 最後に、没後7年を迎えた現在の心境を尋ねた。

「夫の没後と申しても姿が消えただけで、魂、心、精神は、志を同じくする人々と共に今も生きています。亡くなった人々に再び会う時に、お前はダメだと見捨てられないように生きたいと思います」

 文太の遺志を継いだ彼女は、安全な食品を届けるために無農薬有機農業に従事し、沖縄の辺野古基地移転に反対する「辺野古基金」の共同代表として、活動を続けている。

「出会いはどんな出会いも宿縁です。宿命の縁です。偶然とは思えない縁を感じたことは人生で何回かありました。あなた様が夫の評伝をお書き下さったのも何かの深い縁です。小さな縁も大きな縁も大事にしたいと思います」

 菅原文太、享年81。宿縁の夫人と二人三脚で駆け抜けた人生だった。


松田美智子(まつだ・みちこ)
山口県生まれ。金子信雄主宰の劇団で松田優作と出会い結婚。一子をもうけて離婚。その後、シナリオライター、ノンフィクション作家、小説家として活躍。『天国のスープ』(文藝春秋)『女子高校生誘拐飼育事件』(幻冬舎)等の小説を執筆するとともに、『福田和子はなぜ男を魅了するのか』(幻冬舎)、『越境者松田優作』(新潮社)、『サムライ 評伝三船敏郎』(文藝春秋)、『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社)等のノンフィクション作品を多数発表。

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執筆者プロフィール
松田美智子 山口県生まれ。金子信雄主宰の劇団で松田優作と出会い結婚。一子をもうけて離婚。その後、シナリオライター、ノンフィクション作家、小説家として活躍。『天国のスープ』(文藝春秋)『女子高校生誘拐飼育事件』(幻冬舎)等の小説を執筆するとともに、『福田和子はなぜ男を魅了するのか』(幻冬舎)、『越境者松田優作』(新潮社)、『サムライ 評伝三船敏郎』(文藝春秋)、『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社)等のノンフィクション作品を多数発表。
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