教養としてのイギリス貴族入門 (3)

ソールズベリ侯爵家(上)

執筆者:君塚直隆 2023年1月28日
タグ: イギリス
エリア: ヨーロッパ
ソールズベリ一族の居館ハットフィールド・ハウス((C)Richard Semik - stock.adobe.com)と、一族中興の祖メアリ・アメリア(右=ジョシュア・レイノルズ画)
エリザベス1世の女王秘書長官として絶大な信頼を得、ジェームズ1世時に伯爵位を授けられたが、清教徒革命や名誉革命に翻弄されたソールズベリ一族。その中興は、ひとりの女性の登場によって成し遂げられた。『貴族とは何か』(新潮選書)刊行記念スピンオフ企画第3回。

 本連載の第1回第2回で採り上げたデヴォンシャ公爵家より、爵位では一段下の侯爵で、また財力の面でもかなり劣るが、政治的な格式の面では一歩も引けを取らない名家が存在する。それがソールズベリ家(Marquess of Salisbury)である。

エリザベス1世の女王秘書長官として

 元々の家名はセシル(Cecil)。その開祖ともいうべき存在が、テューダー王朝半ばから政治の中枢に位置し続けたウィリアム(1520~1598)だった。彼の祖父はウェールズとの辺境地域に土地を持つ小地主にすぎなかったが、ウェールズを基盤とするヘンリ7世が国王となり、その守衛官に就いたことで、セシル家の運命は変わった。こののちセシル家はテューダー王朝とともに興隆の一途をたどっていく。

 まずは開祖ウィリアムである。1558年にエリザベス1世が即位するや、彼は女王が最も信頼を置く重臣として、女王秘書長官に任命される。女王が送受信する書簡のすべてを取り仕切るとともに、外交をも一手に担っていった。1571年、彼はついにバーリ男爵(Baron Burghley)として貴族に叙せられ、翌72年に大蔵卿に転じた。

 二度の結婚を通じ、彼には2人の息子がいたが、出来の悪い長男(のちにエクセタ伯爵となる)とは異なり、弟のロバート(1563~1612)は政治的才能に溢れる人物だった。バーリ卿の推挙もあり、1591年に女王はロバートを枢密顧問官に任命する。現在でいえば閣僚に相当するが、28歳のこの青年はこれ以前に大臣職に就いたことはなかった。まさに大抜擢である。

 とはいえ、ロバートは女王と初対面だったわけではない。父バーリ卿が一族の拠点をロンドン郊外北部のハートフォードシャに構え、そこの屋敷にエリザベス女王は足繁く通っていた。少年時代からロバートは女王とは顔なじみだったのである。1596年にはかつて父が就いていた女王秘書長官になり、世間は「セシル王国」が建国されたなどと陰口をたたいた。

 しかしこの2人のセシルのおかげで、エリザベスの45年近くにわたる治世は比較的平穏に保たれた。

伯爵位とハットフィールド・ハウスの獲得

 ロバートの次なる難題は「ポスト・エリザベス」のゆくえである。生涯結婚をせず、国に人生を捧げた女王の後継者としてロバートが早くから近づいていたのが、王家と遠戚のスコットランド国王ジェームズ6世だった。1603年に女王が亡くなると、すぐさまロバートはジェームズと連絡を取り、ここにイングランド王ジェームズ1世の誕生となった。いままでいがみ合うことの多かった両国は、1人の王をかすがいに「同君連合(personal Union)」を形成することになった。

 こうした功績もあり、ロバートは1605年にソールズベリ伯爵に叙せられた。さらに狩猟好きだった国王は、たびたびハートフォードシャにある伯爵家の屋敷を訪れた。屋敷の近辺は狩猟に最適の環境だったのだ。ついに王からのたっての願いで、伯爵は屋敷を交換することに応じた。かつてヘンリ8世がカトリックの枢機卿から没収したハットフィールド・ハウスという、伯爵の屋敷からも近い邸宅が新たな伯爵家の拠点となった。それは今日(こんにちでもソールズベリ侯爵家の邸宅であり、シンボルにもなっている。

 1608年には大蔵卿まで兼ね、ステュアート王朝初期のイングランド政治の全権を掌握した初代伯爵が亡くなると、2代伯爵には息子のウィリアム(1591~1668)がついた。彼には父のような政治的野心も才能もなく、多くの芸術家や造園家を集め、ハットフィールド・ハウスの外見も内装もより洗練されたものへと変えていく。しかしその2代伯爵も時代の波にあらがうことはできなかった。

革命に翻弄されたソールズベリ一族

 1642年に清教徒革命(~1649年)が勃発すると、ソールズベリ伯爵家は議会派に与することとなる。国王の首が切り落とされ、共和政が始まるや、2代伯は国務会議のメンバーに推挙される。しかし途中からオリバー・クロムウェルの独裁が始まり、伯爵も政治の中枢からは排除された。やがて王政復古(1660年)となったが、今度は王弟ヨーク公爵(のちの王ジェームズ2世)がカトリック教徒であるにもかかわらず、イングランド国教会の体制下で王位を継承する是非をめぐり、議会内は侃々諤々(かんかんがくがく)の論争に発展した。

 2代伯のあとを継いだロバートの孫のジェームズ(1619~1683)は、カトリック王の登場に反対だった。1679年のある日のこと。ヨーク公が巡遊の帰りにハットフィールドに立ち寄る可能性がでてきた。3代伯爵は突然、家人に何の準備もさせずに外出してしまった。邸宅に着いたヨーク公一行は唖然としながらも、近隣の村にまで食料や蝋燭まで調達しに出向かざるを得なくなった。怒ったヨーク公は邸宅に一泊したあと、出がけに伯爵の寝台の上に8シリングを「宿代」として置いていったとの逸話も残っている。

 しかし3代伯は幸運だった。彼はヨーク公がジェームズ2世として王位に即く前にこの世を去ることができた。ところがなんの因果であろうか。あとを継いだ息子ジェームズ(1666~1694)は、こともあろうにローマでカトリックに改宗してしまった。名誉革命(1688~89年)では国王側についた4代伯爵は、革命後にたびたびロンドン塔に収監された。

中興の祖となった女傑メアリ・アメリア

 こののち、ソールズベリ伯爵家はイングランド国教会に復帰したものの、半世紀以上にわたり一族から傑物が登場することはなかった。

 転機が訪れたのは7代伯爵ジェームズ(1748~1823)のときだった。彼は25歳でひとりの貴族の令嬢と結婚する。お相手は2つ年下のメアリ・アメリア(1750~1835)。主要閣僚を務めるヒルズバラ伯爵の長女であった。彼女は社交の才に恵まれ、ハットフィールド・ハウスもロンドンのソールズベリ・ハウスも一躍社交界の中心地へと衣替えされていく。

 彼女が特にひいきにした政治家が、1783年に現在でも破られていない史上最年少記録の弱冠24歳で首相に就いたウィリアム・ピット(小ピット)だった。これ以後、ソールズベリ・ハウスはピット派(トーリ:のちの保守党)の政治家たちがたむろする社交場のひとつとなった。この機会を逃すような伯爵夫人ではなかった。すぐさま夫を宮内長官に据えてもらい、宮中にまで縁故を拡げたメアリ・アメリアは、1789年についに夫を侯爵に陞爵(しょうしゃく)させることに成功を収める。

 本連載第2回で紹介した第5代デヴォンシャ公爵の夫人ジョージアナ(メアリ・アメリアより7歳年下)は、まさにロンドン社交界における初代ソールズベリ侯爵夫人メアリ・アメリアにとって最大のライバルとなった。ジョージアナの屋敷にはチャールズ・ジェームズ・フォックス系(ホイッグ:のちの自由党)の政治家が集まっていたことも先述したとおりである。

 しかし、ギャンブル癖による借金まみれのうちに48歳で亡くなったジョージアナとは対照的に、メアリ・アメリアは愛人や賭事に溺れることもなく、強靱な体力を維持し続けていく。彼女は賭事より狩猟を好み、なんと78歳まで続けていたほどだった。これ以後は視力にも衰えが見られたが、80歳を過ぎても足腰はしっかりしていた。

 そのような彼女を悲劇が襲った。1835年の冬にハットフィールド・ハウスの西翼で火事が起こり、侯爵夫人はこれに巻き込まれて亡くなってしまう。85年の生涯であった。悲劇的な死ではあったが、それはまた生涯を「ソールズベリ侯爵家」のために尽くした、彼女らしい最期であったのかもしれない。(この項つづく)

 

 

カテゴリ: カルチャー 社会
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執筆者プロフィール
君塚直隆 関東学院大学国際文化学部教授。1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(新潮選書/2018年サントリー学芸賞受賞)、『ヴィクトリア女王』(中公新書)、『エリザベス女王』(中公新書)、『物語 イギリスの歴史』(中公新書)、『ヨーロッパ近代史』(ちくま新書)、『悪党たちの大英帝国』(新潮選書)、『王室外交物語』(光文社新書)他多数。
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