教養としてのイギリス貴族入門 (1)

デヴォンシャ公爵家(上)

執筆者:君塚直隆 2023年1月21日
タグ: イギリス
エリア: ヨーロッパ
初代デヴォンシャ公爵(左)と、伯爵家の居城チャッツワース・ハウス((C)Snapvision - stock.adobe.com)
広大な屋敷で執事やたくさんの召使いと優雅に暮らす――「貴族」にはそんなイメージが広がるが、その家々の来歴が語られることは少ないようだ。『貴族とは何か』(新潮選書)を上梓する君塚直隆氏が繙くイギリス貴族の栄枯盛衰、まずはイングランドで上から8番目の家格となる「デヴォンシャ公爵家」から。

 イギリス貴族。この言葉を聞いて読者のみなさんはどのようなイメージを持たれるだろうか。広大な所領の真ん中に巨大な城のような屋敷を持ち、多くの召使いにかしづかれて優雅な生活を営む姿であろうか。まさに日本でも大評判のテレビドラマ『ダウントン・アビー』で描かれている世界である。21世紀の現在でもそのように暮らす貴族は確かに存在はするが、長い歴史の変遷のなかで、いまやそれはイギリスでも少数派になりつつある。

 本連載では、『貴族とは何か』(新潮選書、2023年1月25日発売予定)であまり細かく触れることができなかったイギリス貴族のなかから、代表的な家をいくつか採り上げ、その栄枯盛衰を見ていくことにしよう。

貴族の中でも別格の「公爵」

 まずは公爵家である。

 イギリス貴族の五爵(公侯伯子男)のなかで公爵は別格中の別格となる。ひとつ家格が下の侯爵までは家名を冠することができるが、公爵だけはゆかりのある地名を爵位につけなければならない。ある意味、日本でいう薩摩守や出羽守に近いかもしれない。21世紀の現在、イギリスには(王族を除いて)24の公爵家が残っているが、今回と次回の2回にわたり採り上げていくのは「デヴォンシャ公爵(Duke of Devonshire)」家である。

 元々の家名はキャヴェンディッシュ(Cavendish)という。公爵家の開祖ともいうべきサー・ウィリアム(1508~1557)は、16世紀前半期に国王ヘンリ8世の宮廷財政を担い、その功績で勲爵士(ナイト)に叙せられた。彼こそが現在でも公爵家の居城となるチャッツワース・ハウス(イングランド中央部ダービシャーに建つ)を築いた人物である。彼の次男ウィリアム(1551~1626)が後継ぎとなるが、父とは異なり宮廷より地方に関心を示し、所領経営に邁進した。王朝もステュアート家に代わり、1618年にはデヴォンシャ伯爵に叙せられた。この初代伯爵が亡くなる頃までには、伯爵家の所領は10万エーカーを超えるまでに拡がった。現在の日本でたとえるなら、横浜市より若干小さい広さということになる。

有名哲学者ホッブズを家庭教師に

 初代伯爵はまた子供たちの教育にも熱心であった。伯爵が息子のために住み込みの家庭教師として雇ったのがトマス・ホッブズ(1588~1679)。あの『リヴァイアサン』で有名な哲学者である。オクスフォード大学を出たばかりの20歳のホッブズは、伯爵から手厚い保護を受け、御曹司の教育にあたった。その彼とともにフランスやイタリアを修学のために廻ったのが第2代伯爵のウィリアム(1590~1628)。ホッブズとは年齢が近く、こののち彼自身が亡くなるまで終生親交は続いた。

 ところが伯爵家に異変が起こる。その2代伯が1628年突然亡くなってしまうのである。38歳という若さであった。伯爵位は当時11歳の長子ウィリアム(1617~1684)が引き継ぐことになったが、まだ子供である。そこで亡き2代伯の未亡人クリスチャン(1595~1675)がすべてを取り仕切ることとなった。男爵家から12歳という年齢で嫁いできた彼女は、いわば「女傑」ともいうべき存在に成長していた。夫を失ったときもまだ33歳ではあったが、夫が残した借財も見事に返済した。またホッブズを家庭教師としてとどめ、今度は息子の3代伯の教育にあたらせた。この子もやがてホッブズとともにヨーロッパ大陸を廻り、フィレンツェではかのガリレオ・ガリレイにも会っている。

 ヨーロッパから帰国した直後(1639年)に3代伯は結婚する。お相手は第2代ソールズベリ伯爵の次女エリザベス。このソールズベリ家については、本連載の第3回と第4回とで詳しく解説していくことにしたい。

「清教徒革命」のさなかに亡命

 2人が華燭の典を挙げた当時のイングランドは、実は内乱寸前の状況にあった。ときの国王チャールズ1世が11年にわたり議会を開かずに、人々から不当な税金を取り立て、はむかうものは不当に逮捕・投獄されていた。国王と議会の対立はついに頂点に達して、ここに「清教徒ピューリタン)革命(1642~49年)」とも呼ばれる内乱へと発展した。

 デヴォンシャ伯爵家は国王派に属し、3代伯の弟チャールズは内乱のさなかに戦死している。兄の伯爵は戦闘に加わることはなく、議会派の優位が確定する頃までにはヨーロッパ大陸へと亡命してしまった。チャッツワースも所領もすべて議会派に没収された。

 国王の首が切られ、議会派により共和政が始まったものの、それも11年で幕を閉じた。1660年に王政復古となり、伯爵は家族とともに帰国した。これまた女傑の母クリスチャンのおかげで伯爵家の財産はすべて取り戻された。彼女は同じく亡命中だったチャールズ2世(チャールズ1世の長子)に資金を送り、支援を続けていたのだ。3代伯は特に政治活動は活発におこなわず、長年にわたり家庭教師を務めたホッブズを屋敷(ハードウィック・ホール)で看取り、その5年後に彼自身も67年の生涯を閉じることとなった。

「名誉革命」で公爵家へ

 後継者の4代伯ウィリアム(1641~1707)もまた、幼少期からホッブズに学んでいる。王政復古とともに庶民院議員に選ばれ、議会活動に邁進した。国政に関心がなかった父とは対照的に、「キャヴェンディッシュ卿」の名で活動した彼は、議会政治のなかで頭角を現していく。イングランド国教会に属していた4代伯は、カトリック教徒であることを公言していた国王の弟ヨーク公爵(のちのジェームズ2世)が王位を継承することに反対を示していた。父が亡くなり第4代伯爵を襲爵した翌年(1685年)、ジェームズ2世が即位し、彼は次第に側近をカトリック教徒で固めていく野心をあらわにしていった。

 4代伯は同じくカトリック王の即位に否定的だった、国王の女婿で甥にもあたるオランダ総督のウィレムと連絡を密にした。1688年6月、ジェームズ2世に男子が誕生し、この子(同じくカトリック教徒)が王位を引き継ぐ可能性が高まるや、他の有力者6名と一緒にウィレムをイングランドに招請する。のちに「不滅の7人」と呼ばれる一角を4代伯は占めていたのである。これを受けて同年11月にウィレムはオランダ軍とともに上陸する。イングランドでは大半の貴族たちがジェームズ2世に反旗を翻しており、王は戦わずしてフランスへと亡命した。世に言う「名誉革命」の成功である。

 ここにウィレムはウィリアム3世として妻メアリ2世(ジェームズ2世の長女)と共同統治をおこなうことになった。2人を支える王室家政長官には4代伯が就任した。これらの功績から、1694年に伯爵はついに「初代デヴォンシャ公爵」へと陞爵(しょうしゃく)したのである。公爵位と同時に与えられた爵位により、これ以後、公爵家の長子には「ハーティントン侯爵(Marquess of Hartington)」という儀礼上の爵位を名乗れる権利が認められた。

 イングランドに立憲君主制を確立した名誉革命の功労者であったにもかかわらず、これ以降公爵は政治にはあまり深入りせず、あくまでも宮廷の運営のみに専心していく。それはまさに公爵家の家訓である「慎重さによって身を守れ(CAVENDO TUTUS)」を実践して見せたかのようであった。こうしてイングランドで上から8番目の家格となる「デヴォンシャ公爵家」の歴史が始まることとなった。(この項つづく)

君塚直隆『貴族とは何か』(新潮選書)
カテゴリ: カルチャー 社会
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執筆者プロフィール
君塚直隆 関東学院大学国際文化学部教授。1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(新潮選書/2018年サントリー学芸賞受賞)、『ヴィクトリア女王』(中公新書)、『エリザベス女王』(中公新書)、『物語 イギリスの歴史』(中公新書)、『ヨーロッパ近代史』(ちくま新書)、『悪党たちの大英帝国』(新潮選書)、『王室外交物語』(光文社新書)他多数。
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