ロシア研究者の現地渡航は是か非か? 極東・シベリアで見た「戦争」の実態

執筆者:服部倫卓 2025年10月24日
エリア: アジア ヨーロッパ
ノヴォシビルスク市内で見かけた契約兵募集の広告(以下、写真はすべて筆者撮影)
地域研究者にとって、現地の実情を自分の目で把握することは研究の要だ。日本の大学の多くは外務省「海外安全ホームページ」に基づきロシアへの渡航を制限しているが、外務省による危険度判定は政治的な配慮も多分に含んでいる。今回、6年振りにロシアを訪れた研究者が極東・シベリアの都市で見たのは、戦争から直接の影響を受けない大多数の国民と、契約金と引き換えに戦場へと赴くアジア系少数民族の現状だった。

6年振りにロシアへ

 私は9月に10日間ほどロシアを訪問してきた。以前は、年に1~2回は必ずロシアに出張し現地調査を行っていたのだが、コロナ禍と戦争により長い中断を余儀なくされていた。今回のロシア渡航は、実に6年振りとなる。

 当然のことながら、やはり首都モスクワの様子は見たいので、最初はモスクワを含んだ旅程を考えた。しかし、モスクワをはじめとするヨーロッパ・ロシアの空港は、最近は防空警報で頻繁に一時閉鎖されており、その関係でかなりの便が欠航になっている。モスクワに行ったはいいが、予定どおり帰ってこられないといった事態は避けたい。そこで、今回モスクワは諦め、ウラル山脈の手前で折り返して帰ってくるロシア極東・シベリアの旅にした。

北京の空港でウラジオストク便の列に並ぶ乗客たち

外務省の「危険情報」のため私費で出張

 とはいえ、悩ましい問題がある。私の所属先である北海道大学では、現在のところ、公費でロシアに出張することができないのだ。

 私の理解によると、文部科学省や、科学研究費助成事業を取り仕切る日本学術振興会から、海外出張の渡航先に関する明確な指針は出されていないはずである。渡航の可否や旅費支出などは、各研究機関自身の判断に委ねられている。

 情報を総合すると、国立大学、特に旧帝大や大規模大学などは、日本外務省が発出する「海外安全情報」を根拠に、危険レベルによって渡航制限を設けているところが多いようである。その一方で、国立大学でも文系中心の小規模大学や、私立大学の場合には、外務省の危険情報を参考にはするが、最終的には自己責任を前提に、安全対策をとれば、所属大学が許可を出すというところが少なくないようだ。

 私の所属する北海道大学は前者のパターンで、外務省による危険度が3(渡航中止勧告)以上の国・地域への公費による出張は認められていない。そして、ロシアについては、2022年2月のウクライナへの全面軍事侵攻開始以降、ロシア全域を対象にレベル3の危険情報が出ているので(ウクライナと隣接した地域についてはさらに高いレベル4)、私が公費でロシアに出張することはできないわけである。

 ところで、これは私がロシアから帰国した後のこととなるが、外務省は9月12日、ロシアに対する危険情報の内容を一部改定した。レベル3を維持した上で、「真にやむを得ない事情」がある場合には、ロシアに渡航・滞在することを妨げないこととしたというのが、外務省のアナウンスであった。

 しかし、この外務省の文言にしても、非常に誤解を招くものではないか。そもそも外務省には日本国民の海外渡航や滞在を法的に制限・禁止する権限などなく、危険情報や渡航中止勧告は、法的拘束力を持たない「ご案内」にすぎないのだ。渡航・滞在することを「妨げない」などと聞くと、いかにも外務省に決める権限があるかのようだが、実際には「まあいいんじゃないでしょうか」というニュアンスをお役所言葉で表現したものにすぎない。

「海外安全情報」は、本来は国民向けの情報提供サービスにすぎず、国民はそれを参考に自己責任で行動すればいいはずだ。それを、あえて強制力を匂わせ、国民の海外渡航を外務省にとり都合の良いようにコントロールしようとする点に、「海外安全情報」のトリッキーさがある。

 それが浮き彫りとなったのが、2023年10月の鈴木宗男議員による訪露をめぐってであった。当時の上川陽子外相は、ロシアにレベル3の危険情報が出ていることを理由の一つに、鈴木議員の訪露に批判的な評価を示した。しかし、日本政府が真に問題視していたのが、鈴木議員の言動が政府の外交スタンスに反していた点であったことは、明らかだ。この時点ですでに、日本政府関係者は普通にロシア出張をしていたわけで、危険情報云々は取って付けた理由だった。

 たとえば、国会議員が、ロシアより高いレベル4の危険情報が出ているウクライナを訪問したら、外務省は危険情報を理由にそれを批判しただろうか? 私自身、鈴木議員の言動に感心はしないが、それを批判するために危険情報を持ち出すのは、欺瞞的であると感じる。

 もっと言えば、そもそも外務省による危険レベルの設定自体が、恣意的なものである。日常的に銃乱射事件が起き、日本人がとても立ち入れないような危険なエリアが存在する米国につき、外務省は現状で一切危険情報を出していない。これでは、国民を守るための危険情報ではなく、外務省の都合優先かと疑われても、仕方ないであろう。

 こんな具合に、危険情報にまつわる疑問や不満は尽きないが、そんなことを言っていても埒が明かない。私にとり、ロシアを訪問し、現地の実情を自分の目でつぶさに観察することは、研究活動の要である。そのライフワークを、6年間も実施できておらず、今後も再開の見通しが立たないことに、言いようのない危機感が募ってきた。これはもう、休暇を利用して、私費で行くしかあるまいと覚悟を決め、今回のロシア行きを決めたのだった。

ロシア側は入れてくれるのか?

 だが、私が自腹で行くと決めたとしても、ロシア側が入れてくれるのかという別の問題がある。

 2022年2月のウクライナ侵攻以降、ロシアは日本を「非友好国」の一つと位置付け、日本人のロシア入国禁止リストを制定している。私の把握している限り、学者では、袴田茂樹(青山学院大学・新潟県立大学名誉教授)、神谷万丈(防衛大学校教授)、櫻田淳(東洋学園大学教授)、鈴木一人(東京大学公共政策大学院教授)、岡部芳彦(神戸学院大学教授)、中村逸郎(筑波大学名誉教授)の各氏が、その対象になっている。これらの面々にはロシアとの関わりに濃淡があるし、その一方でロシアを非難しウクライナを支持している代表的な論客たちが漏れているなど、奇妙なリストとなっている。

 今のところ私は、くだんのブラックリストには載っていない。ただ、プーチン政権がウクライナへの全面侵攻を開始して以降、末席からではあれ、それを批判する論陣を張ってきたつもりだ。果たして自分のような人間がロシアに入国できるのだろうかという疑問があった。

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執筆者プロフィール
服部倫卓(はっとりみちたか) 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授。1964年静岡県生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士後期課程(歴史地域文化学専攻・スラブ社会文化論)修了(学術博士)。在ベラルーシ共和国日本国大使館専門調査員などを経て、2020年4月に一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所所長。2022年10月から現職。著書に『不思議の国ベラルーシ――ナショナリズムから遠く離れて』(岩波書店)、『歴史の狭間のベラルーシ』『ウクライナ・ベラルーシ・モルドバ経済図説』 (ともにユーラシア・ブックレット)、共著に『ベラルーシを知るための50章』『ウクライナを知るための65章』(ともに明石書店)など。
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