Bookworm (26)

グレアム・スウィフト 真野 泰・訳『マザリング・サンデー』

評者:豊崎由美(書評家)

2018年7月8日

ある1日の出来事を未来の
眼差しで多面的に描く

Graham Swift 1949年、ロンドン生まれ。1996年、『最後の注文』でブッカー賞ほか受賞。本作では、「最良の想像的文学作品」に与えられるホーソーンデン賞を受賞。

 あの日、あの時、あの場所。人生を決定的に変えてしまう出来事が、まれに起こる。グレアム・スウィフトの『マザリング・サンデー』の主人公ジェーンにとってのそれが、1924年3月30日。年に1度、使用人に許される里帰りの日(マザリング・サンデー)だった。
 ニヴン家でメイドをしている、孤児ゆえに帰る家を持たない22歳のジェーンがその日訪れたのは、ご近所にあるシェリンガム家の屋敷。彼女を招いたのは当家の23歳になる息子ポール。身分違いの2人は7年前からつきあっており、〈ありとあらゆる秘密の場所で、ありとあらゆる種類のことを〉する仲だったのだが、ポールは2週間後に半ばお金目当ての結婚を控えている。
 正面玄関でジェーンを丁重に迎えるポール。窓を大きく開け放った自室で、ゆっくり厳かに服を脱がせていくポール。事後、裸のまま横たわり、煙草をくゆらせる2人。「一時半にあれに会わなきゃならない」と起き上がるポール。結婚相手との待ち合わせに遅れそうなのにもかかわらず、ゆっくりと身支度をするポール。その姿を裸のまま見つめるジェーン。脚の間から〈しみ出すような悲しみを伴って〉流れ出ていく、〈彼の種〉と自分の体液。鍵の隠し場所を教えた上で、「きみは急がなくていい」と、ポールが車で出かけていった後、裸のまま邸内を探索するジェーン。
 後年、高名な作家になるジェーンは、その後の人生で、この日へと幾度も立ち返っていくことになる。「いつ作家になろうと思ったのか」「若い時の男の子との冒険は?」など、インタビュアーから質問を受けるたび、1924年3月30日へと思いを馳せるジェーンは、しかし、誰にもこの日のことは話さない。「ジェイ、きみは僕の友だちだ」と言ってくれたポールのことを、ジェーンは生涯、誰にも教えない。ジェーンの、あの日、あの時、あの場所の物語を知っているのは、作者と読者だけなのだ。
 ポールとの最後の逢瀬となる悲しみの日に、しかしジェーンは〈突然で意外な自由の感覚が体にみなぎ〉る昂揚感に包まれることにもなる。喪失が自由を生む、〈人生はこんなに残酷になることができ、けれどもそれと同時にこんなに恵み深くなることができるのか〉という啓示が、彼女を小説家にするのだ。たった1日の出来事を、未来の眼差しで多面的に描き、〈様々な場面。実際には起こらず、可能性という名の舞台袖に待機している様々な場面〉を常に想起させることで生まれた、正しく想像的で創造的な素晴らしい小説だ。

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