
経済成長著しい新興アジア諸国は、新型コロナ禍からも力強い回復を見せつつある。この経済成長を支えるのが、急成長しているタイ・バンコク、フィリピン・マニラ、マレーシア・クアラルンプール、ベトナム・ホーチミンといったメガシティだ。筆者が長年まちづくりに携わってきたインドネシアのジャカルタも然りである。
ジャカルタの「カンポン」
ジャカルタの人口は2000年に840万人、2010年に960万人、2020年に1100万人と急速に増えてきた。都心部には超高層のオフィスや集合住宅が林立し、大型ショッピングモールには世界的なハイブランドも並んでいる。日本の牛丼やうどん、ラーメンなどのチェーン店で馴染みの味を楽しむこともできる。

しかしながら、高層ビルからひとたびジャカルタを眺めると、都心部はごく一部に過ぎず、多くの人々は低層の家が密集した、いわゆるスラムに暮らしている現実を改めて感じる。インドネシアでは、近代主義的な都市開発事業に依らず漸進的に形成され、「インフォーマル」とみなされる市街地を「カンポン(kampung)」と呼ぶが、ジャカルタでカンポン居住者は6割とも7割とも推定されている。カンポンでは、開発事業等によって整備されるべき基本的インフラがなかったり、住宅そのものの質が低かったりするなど、居住環境上の問題を抱えていることも多い。さらに、経済成長に伴い、民間事業者によるカンポンの再開発も活発化しているが、都市が富裕化する「ジェントリフィケーション」によりカンポン住民が追い出されるという社会問題も発生している。
スラムの居住環境改善という世界的な課題
世界的動向に目を向けると、80億人超の世界人口のうち都市に住む人は55%にあたる45億人、さらにスラムに住まう人々は10億人と推計されている。必定、都市におけるスラムの居住環境改善は、世界的な課題として取り組まれてきた。2001年にまとめられたミレニアム開発目標(MDGs)では「2020年までに少なくとも1億人のスラム居住者の生活を大幅に改善する」ことを謳い、続く持続可能な開発目標(SDGs)では17の目標の一つに「住み続けられるまちづくりを」を掲げ、スラムの居住環境改善をいの一番にあげている。
一連の世界的取り組みが奏功してか、都市人口に対するスラム人口の割合は1990年の46.2%から2000年の39.4%、2010年の32.6%と減少しており、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ地域のほとんどで同様の減少傾向が見てとれる。
しかしながら、事態はさほど楽観的ではない。先のジャカルタの人口動態でも見たように開発途上国の都市人口は増加し続けており、したがって、スラム人口の割合が減少したとしてもスラム人口そのものは増加し続けてきたのである。1990年に6億9000万人だったスラム居住者は2000年には7億9000万人、2010年には8億7000万人にまで増加しており、SDGsの目標とする2030年までに有効な手立てを打たなければスラム人口は倍増すると国連ハビタット(人間居住計画)は警鐘を鳴らしている。スラムの居住環境改善はかくも厳しく喫緊の課題なのである。
もちろん、政府も民間事業者も低所得者向け住宅の供給などスラムに対して様々な策を講じてきたが、都市人口の急速な増加のもとで十分な量の住宅が確保されているとは言い難い(だからこそ、今なおインフォーマルな市街地が広がっているわけであるが)。
それではどうすればよいか? 実はカンポンのような市街地では一方、居住環境を改善あるいは維持しようとする人々の営みを目にする。ここに一つのヒントが見出せるのではなかろうか。
カンポンで営まれる「まちづくり」
ジャカルタのカンポンの話に戻ろう。
ビルの上からは無秩序に見えるカンポンだが、ひとたび中に入り、「どこに行くの?」「ちょっとそこらを」などと挨拶を交わしながら、十数平米あるかないかの狭小な住宅がひしめくカンポンを歩くと、近隣を慮りながら暮らす人々の姿が窺える。人が一人通れるか通れないかの細い路地でも、家々には人が集うテラスが設置されていたり、互いのプライバシーに配慮して、窓が隣家と互い違いに設けられたりしている。また、各戸の庇は道路の中心を出ないように綺麗に揃っている。


これらはインドネシアの建築基準法にあたる建造物建築法で定められているルールではなく、町内会「ルクン・ワルガ(RW)」や隣組「ルクン・トゥタンガ(RT)」といった地域コミュニティの中で自主的に定めたものだ。さらに、カンポンでは、経験豊かな技術者が中心となって住民らとともに地域コミュニティ内のあらゆる建設工事を進める体制も整えられている。つまり、カンポンには居住環境を維持、改善しようとする人々の「まちづくり」が、フォーマルな都市開発とは異なる形で展開しているのだ。
カンポンはスラムと同義ではない。そこに住まう人々による「まちづくり」の営みが脈々と息づく市街地なのである。
ちなみに、カンポンを歩く私に「どこに行くの?」と声をかけるのは、見知らぬ人を監視してコミュニティを守ろうとする意味もある。
住民参加型のスラム改善策「カンポン改善プログラム」の経験
このようなカンポンの「まちづくり」の仕組みは一朝一夕に作られたものではない。
インドネシアでは、1970年代に「カンポン改善プログラム(KIP)」と呼ばれる住民参加型の居住環境改善プログラムが全国的に実施され、RTやRWと呼ばれる地域コミュニティによって共同水場や排水路、道路などのコミュニティインフラが整備されてきた経緯がある。

KIPは、当時主流であった政府主導によるトップダウンな都市開発や公営住宅の提供に対し、都市のスラムで試みられ始めていた住民参加型の居住環境改善の嚆矢的な取り組みであった。この頃、イギリスの建築家ジョン・ターナーの著書『建てることの自由』などを通して、スラムなどのインフォーマルな居住地における住民の自主的なまちづくりが再評価されたこと、都市や居住問題に関する専門機関として国連ハビタットが設置されたこと、世界銀行によって都市開発分野の融資が開始されたことなどから、住民参加型の取り組みに注目が集まりつつあった。
KIPはインドネシア全国の主要都市で1989年まで行われ、現在でほぼすべてのカンポンで実施済みである。インドネシアがまだ世界的にも珍しかった住民参加型事業に踏み込めた要因の一つに、RTやRWといった組織化された地域コミュニティの存在があることは言うまでもない。KIPが評価されるのは、この地域コミュニティをベースとした住民参加によって居住環境の改善に取り組んだところにあり、それはまた行政にとってはコストエフェクティブな策でもあった。一方で住民にとっては、事業が入ることによって「住まう権利」を認められたことと同義でもあり、その結果、コミュニティインフラ整備を狙いとしたKIPでは手をつけなかった個々の住宅の改善にも繋がったとも言われている。立ち退きの恐れがなくなったことで初めて人々は、決して高くもなく、また、安定的でもない所得を住宅改善にも向けるようになったのである。人々の住まう権利が居住環境改善に繋がったというわけである。
そして、このようなKIPをはじめとする住民参加型の経験は地域コミュニティに脈々と蓄積されており、実際、KIPを経験した技術者が現在もカンポンのインフラ整備を中心になって行うことも多い。
開発課題の調整を図る参加型開発の仕組み「ムスリンバン」
その後、インドネシアでは、住民参加型の開発が主流化してゆく。1990年代には都市部だけでなく農村部でも住民参加型の地域コミュニティ開発が進められ、2000年代以降の民主化・地方分権化のうねりの中でこうした動きはさらに展開した。
2000年代初頭から各種開発計画の策定過程において制度化されたのが、「ムスリンバン(Musrenbang)」と呼ばれる開発計画会議だ。ムスリンバンは、地域コミュニティから地方自治体、さらに全国に至る各段階で開催されており、地域コミュニティレベルでボトムアップ的に出された開発課題は地方自治体レベルで集約され、一方で、全国的ムスリンバンにおいて中央政府から下りてくるトップダウン的な開発課題との間で調整が図られる仕組みだ。
ここで、地域コミュニティにおけるこのムスリンバンには、住民は誰でも参加することができ、筆者もお邪魔させていただいたことがあるが、カンポンにおいても活発に意見が交わされていたのをよく覚えている。2000年代の中頃には試行錯誤の中で進められてきたムスリンバンも、今や年中行事とも言える日常的な参加型開発の取り組みへと変わったという印象を受ける。
「自律的なコミュニティ」に向けたまちづくり
新型コロナ禍でのロックダウンや日本の緊急事態宣言時に、私たちは身近な環境に目を向けることが多くなった。そこからいま、パリでは「15分のパリ」、メルボルンでは「20分のネイバーフッド」、さらには、国際協力機構(JICA)では「ニュー・ネイバーフッド」という考え方が打ち出され、自宅から公共交通や自動車を使わず歩いて行ける範囲に様々な都市機能が配置されるべきという議論が盛り上がっている。これは、トップダウン的かつ構造的な都市開発と並んで、まちづくりの単位となる地域コミュニティを見直す動きとして捉えることができ、本稿でとりあげたジャカルタでも、このような動きと同期した「自律的なコミュニティ」というコンセプトが提唱されている。
インドネシアでは、カンポン改善プログラムのような居住環境改善の経験は、「ムスリンバン」のような参加型開発の仕組みに裏打ちされて「まちづくり」へと確かに展開しつつあり、また、同様の動きは、程度の差こそあれ、多くの新興アジア都市において見受けられる。「自律的なコミュニティ」に向けたまちづくりが新興アジア諸国でいま大きく躍動しようとしているのである。