【福島第1原発事故から10年】飯舘村:「地域喪失」からの開墾(下)

執筆者:寺島英弥 2021年3月10日
エリア: アジア
菅野義人さん(左端)、啓一さん(中央)を中心に、農地の放射線測定の方法を学ぶ(2014年、筆者撮影)

“復興のシンボル”として「箱もの」が急ピッチで造られてきた。その国主導のスピード感は、皮肉にも住民から話し合いの時間と忍耐を奪っていった。そして、ようやく探り当てた新たな原点――。                   

 区長を引き受けてほしいと話があったのは、義人さんが帰還して翌18年。2人暮らしの妻久子さんが避難中に脳出血で倒れ、その後も妻を支えながらの開墾生活となり、「しばらく公務優先とはいかない。できれば勘弁してほしい」と辞退した。が、2年しか猶予を得られずに選ばれ、重い役職とともに地域の現実に関わることになった。

「国依存」への村政変質

 自身は43歳から副区長を経験した。20代で農協畜産部会の三役に推され、「若いやつにやらせよう」と人を育てる気概が地域にあったという。「復興を担うのは若い世代だ。彼らが発言し、意見を表明する場を、年長者は準備しなくてはならない」と考えてきた。ところが最近の総会では、役員になってほしい一世代下の出席者から「移住先の町内会でも『役員をやって』と言われている。比曽と両方はできない」と断られた。

 行政区の役員にもなり手がおらず、総会では、話し合いや提案、意見の持ち寄りではなく、「いきなり無記名の投票になった。決まったら文句を言うな、と。いまの立場がどんなであれ、いま、比曽のために『自分ができること』を話してほしいのに」。

 行政区長には、村役場からの要請や指示、事務連絡、住民の調査、期限を切って回答を求める文書が山のように来るという。その1つが「地区別計画」だ。来年度がスタートの飯舘村第6次総合振興計画の中で、行政区ごとの活動方針、農地・山林の活用、伝統芸能、交流、健康づくり――などの計画を、それぞれの行政区につくらせる内容だ。

「この10年の飯舘村は、国の復興予算と大型のハード事業に依存して、原発事故前の『地域から手づくりする』村づくりの原点を忘れてきた」と、原発事故を挟んで13年まで16年間、村議も務めた義人さんは言う。

 村の一般会計予算は、「ヨイシゴト」を語呂にした平成22年度の41億4510万円から、令和元年度の143億2000万円に膨張した。その間、幼稚園・小中学校とスポーツ施設整備に約50億円、新公民館に約11億円、道の駅に約14億円など、「復興のシンボル」と銘打たれた「箱もの」が造られ、復興大臣らを招いて華やかな祝賀イベントが催された。

「国依存」への変質を語るのが、原発事故後の10年間、従来の総合計画に代わる「いいたて までいな復興計画」策定の推移だ。避難中の村民の生活と帰還の支援を模索した「までいな復興計画」初版(11年12月)では、委員のうち村民が10人、村議4人、村職員が事務局を含め9人。外部が福島大学や県、国、研究機関の7人と、村の当事者が主体だった。ところが、第5版策定の第1回会議(14年7月)では、村民は5人、村議2人に減り、委員長の赤坂憲雄氏(東日本大震災復興構想会議委員)以下、村外の有識者は17人、事務局に三菱総合研究所の6人が入り、村民はわずか5人、村議2人。いつの間にか道の駅など「村内復興拠点エリア」の箱もの群が復興計画の目玉になっていた。

行政区の戸惑い

「村の中で時間を掛けて議論をしていたら、国の事業に乗り遅れてしまう」。当時、村の財政担当者が、疑問を呈した義人さんにこう語ったそうだ。 

 筆者のブログ『余震の中で新聞を作る』(13年12月4日)は、村内で「ワークショップ」という意見聴取会が地区ごとに催されて住民が集められ、国の予算で東京の大手コンサルタント会社が運営していたことを、義人さんの次の言葉とともに記している。

〈「ワークショップでは、『なんで今ごろ?』『先の見通しがあるのか?』『アリバイづくりではないのか?』といった声が出ている。もっと早く、避難して間もない時期から、村の主導で始めていれば。国の除染への地元側の意見を吸い上げたり、戻ろうとする時にこういう地域にしよう――と村の計画に位置づけるものであったりすれば、みんなが帰村への目標を共有できただろう〉

 同じ旧比曽村だった隣接の長泥地区は、現在も帰還困難区域であり=2020年3月11日の『丸9年の「3.11」――変貌する古里「飯舘村長泥」のいま』参照、その隣の蕨平(わらびだいら)地区の帰還世帯は数戸。「復興計画から地域が取り残され、その再生に村の支援はなく、帰還者は少なく、いきなり『地区計画』を作れと言われても、どうしていいか分からないのが多くの行政区の実情ではないか」と義人さんは言う。

花のハウス栽培を再開させた菅野啓一さん(2018年、筆者撮影)

 そこから近い比曽の小盆地の裾で、地域づくりの長年の盟友、菅野啓一さん(66)が花栽培をしている。原発事故前から稲作とハウスの花づくりを手掛け、コメは断念したが、ハウスを再建して18年からトルコキキョウ、カスミソウなどを出荷してきた。

 帰還後、村から農業委員会の会長を委嘱された。除染後も広大な耕作放棄地となりかねない未帰還者の農地の維持・活用が難題となっており、昨年、希望者に農地を集約できるかどうか、村民全戸の意向調査をした。「分かったことは、農業再開の意思がなく『貸したい』という人が大半で、『借りたい』人がほとんどいないという現状だ」。

 啓一さんは避難中も義人さんと共に比曽に通い、環境省の除染作業が始まる以前から、住民独自の除染実験を重ねた。環境省が表土はぎ取り除染の対象外とした屋敷林を「住民の日常の生活空間」として、林床から高木の枝葉までを取り払い、放射線量を劇的に下げる方法を編み出した=2017年3月11日の拙稿『東日本大震災6年「避難指示解除」は妥当か?:「除染実験」に挑む飯舘村の農家』参照。「村が帰還支援の事業として取り組み、不安払しょくに生かしてほしい」と役場に提案したが、環境省の手前もあってか、取り上げられなかった。

「できる限りの努力をしたが、コミュニティーは崩れてしまった。村は『行政区を復活させろ』と言うが、戻らない人にとって古里とは何なのか、自分には分からない」

 原発事故が起きた当時、啓一さんは区長を務めていた。〈必ず帰るぞ、この比曽へ!!〉〈比曽は一つしかないんだぞ〉。除染で解体された地元の集会所には、住民たちが避難直前の11年5月末の「お別れ会」で黒板に残した寄せ書きが残っていた。                      

希望は「外からの力」

 菅野区長が苦慮する地区別計画について、啓一さんは格別の思いがある。村の第4次総合振興計画(1994年策定)で登場した地区別計画は、村が各行政区に1000万円ずつの予算を配り、比曽では住民の委員会が10年を掛けて「何が地元に必要か」を議論。そこから区長時代の06年に、3つの憩いの公園や、全世帯が協力して家系図をつくり家々の絆を確かめる「比曽地区史」を完成させた。啓一さんが「宝」と呼ぶ成果だった。

 地域を超えた住民同士の連帯も地区計画を彩った。「わいわいがやがやサミット」。村役場から遠い「周縁」に位置する比曽、長泥、蕨平、小宮、佐須、大倉、八木沢・芦原の7つの行政区が参加し、互いの活性化の知恵を議論し、民俗芸能と地元食材を楽しんだ。「飯舘村の良さは地域にあり」を実践するサミットは、震災前年まで回を重ねた。

 その経験から、啓一さんはこう語る。「周縁のつながりは飯舘の村づくりの原点だった。1つの行政区で困難なことでも、地域同士がもう一度、共通の問題に知恵を出し合い、元気にし合える場をつくれないか。そして、帰還する住民が少ないのなら、その限界を破れるものは、新しい仲間になってくれる『外からの力』なのではないか」

 啓一さんはこれまでの除染実験などで、東京大学農学部の学生、院生たちの応援を受け、若者の力に期待を持っていた。「飯舘村のこれからに可能性を感じて、夢を描いてみたい人を全国から募ればいい。俺たちも力を合わせて、またがんばれる。地域ににぎわいが生まれれば、戻ってくる仲間も出てくる」

「外からの力」は、実に230年前の天明の飢饉からの復興を助け、仲間になったという歴史がある。義人さんがこんな話をしてくれた。 

「わが家の近くに、家の跡があり、相馬藩の招請で北陸から移住した御門徒(一向宗)の末裔が住んでいた。開拓者精神を持った人々が比曽に集い、天明の飢饉で死に絶えた家を受け継ぎ、土地を耕したのだ」

 相馬藩はその時、村ごとに郷倉(穀物を蓄えた倉)を建てて次の災害に備え、赤ちゃんの間引きを厳罰化し、子育てのためのコメを(人数に応じて)支給し領民の暮らしを支援した。さらに「相馬藩御条目」を出し、住民が互いに助け合うことを基本に、五人組(家族のように苦楽を共にする)、十人組(親戚のような付き合い)、さらに村の住民が友だちのように助け合う――ことを定め、さまざまな人が集った地域の再生をはぐくんだ。

 避難指示解除の後の3年余りで、飯舘村への移住者が100人を超えたというニュースも先年秋に流れた。村にとっては、これからにつながる朗報だ。        

                                    (了)

カテゴリ: 社会
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執筆者プロフィール
寺島英弥 ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/
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