医療崩壊 (75)

人材育成の要は「旅」――MLB日本人選手と西日本進学校の「適応力」はなぜ伸びる?

執筆者:上昌広 2023年6月5日
タグ: 日本
エリア: アジア
甲子園を目指しての「野球留学」も、名門進学校での「寮生活」も、人を育てる「旅」だ(Photo AC)
MLBで活躍する日本人選手の多くが経験している、寮生活や国内留学。また西日本の進学校も全国からの生徒を受け入れている。共通するのは、こうした「旅」が「適応力」を高めるということだ。

 前回、日本での野球エリートがメジャーリーグ(MLB)で活躍していないことを紹介した。では、どうすればいいのか。本稿で論じたい。

生き残りに必要な「適応力」

 筆者の知人に川畑健一郎さんという元野球選手がいる。1997年春の選抜高校野球大会を制した天理高校のメンバーで、卒業と同時にボストン・レッドソックスに入団した。3年間はマイナーリーグ、その後はメキシコや米独立リーグなどでプレーし、MLBに昇格することなく、日本に帰国した。

 川畑さんのコメントが面白い。彼は、MLBで活躍するために最も必要なのは「適応性」というのだ。ベースボールライターの阿佐智氏の取材に答えて、「いきなりの異国での生活。野球以前の問題だった。話し相手が欲しくても日本語を解る相手もいない。いつクビになるかわからない環境で、選手たちはささくれだっており、チーム内での喧嘩は日常茶飯事。それは、10代の少年にとって、野球に没頭できる環境ではなかった」と語っている。彼は、米国で成功しなかった理由を、「適応力」がなかったためと分析している。

 なぜ、川畑さんには「適応力」がなかったのか。2019年7月、筆者が主宰する医療ガバナンス研究所の勉強会で川畑さんが講演した際、その理由について「高校時代から惰性で野球をやってきたから」と語った。

 川畑さんは、50メートル走を5秒台で走るなど、MLBの球団も注目するほどの高い身体能力を有していた。日本の高校野球レベルなら、周囲に合わせて、自らを変える必要はない。その圧倒的な存在感から、誰も文句は言わない。この結果、川畑さんは、適応力を高めることができなかった。自分と大して運動能力が変わらない、かつての同僚たちが、その後メジャーに昇格し、活躍する姿を見て、「MLBで生き残るか否かは、この適応力にかかっている」と痛感したという。

「旅」が成長させる

 どうすれば、「適応力」を高めることができるだろうか。それは青年期に「適応力」が求められる環境に身を置くことだ。戦後の日本社会や、文化大革命後の中国のように、戦乱や困窮に身を置けば、誰もが「適応力」を付けざるをえない。議論すべきは、平和な環境で、どうやって「適応力」を向上させるかだ。

 手っ取り早いのは、旅をさせることだ。旅が人を成長させるのは、古今東西変わらない。ドイツのマイスター制度など、その典型だ。文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテはヴァイマル公国を去り、イタリアに移り住んだ。そして、『ファウスト断片』や『イタリア紀行』を書き進めた。生まれ故郷を離れ、苦労したことでゲーテは脱皮した。

 コロナパンデミックの克服も「旅」が関係する。mRNAワクチンの開発に貢献したカタリン・カリコ博士、ウグア・シャヒン博士は、それぞれハンガリー、トルコで生まれ、米国、ドイツに移住した。mRNAワクチンの臨床開発を主導した米ファイザーのアルバート・ブーラCEO(最高経営責任者)は、ホロコーストの生き残りを両親に持つユダヤ系ギリシャ人で、その後、米国に移住する。彼らが成功を治めたのは、移民として苦労を重ね、「適応力」を身に付けたからだろう。

成功につながる「寮生活」の経験

 では、「適応力」がある野球人を育成するにはどうすればいいか。若き野球人にも「旅」をさせればいい。

 実は、日本にはその伝統がある。それは野球留学や寮生活だ。親元を離れ、他人の飯を食うことで、野球技術の習得だけでなく、実社会に出てからの「適応力」が身に付く。

 イチローや大谷翔平は、高校時代に親元を離れて、寮生活を経験している。大谷は、花巻東高時代の寮生活を振り返り、「何度も怒られました」「だから僕、高校でだいぶ変わったと思いますよ」とコメントしている。基本的な人格は、高校生くらいまでに形成される。この時期に、親元を離れて苦労することは、その後の人生の財産になるだろう。

 では、日本人のMLB経験者のうち、どの程度が高校時代に寮生活を経験しているのだろうか。実は、驚くほど多い。66人の日本人メジャーリーガーのうち、25人(38%)が高校時代に親元を離れて寮生活を送っているのだ。

 米老舗メディアの『スポーティング・ニューズ』が「MLB史上最高の日本人選手ランキング」と題した特集記事を掲載したが、この中でトップ10に入った選手に限定すれば、イチロー(愛工大名電)、大谷翔平(花巻東)、ダルビッシュ有(東北)、田中将大(駒大苫小牧)、岩隈久志(堀越)の5人が高校時代に寮生活を送っている。

西日本に多い野球留学

 野球名門校は生徒を合宿させるのが当たり前とお考えの読者もおられるだろうが、必ずしもそうではない。興味深いのは、寮生活への考え方に地域差があることだ。我が国でMLBへ多くの人材を供給しているのは近畿地方(23人)と関東地方(14人)だ。近畿地方出身の23人中、9人(39%)は高校時代に寮生活を送っているのに対し、関東地方出身者は4人(29%)に過ぎない。

 近畿地方に限らず、西日本出身者は寮生活経験者が多い。九州地方は9人中3人、中国地方は3人中2人、四国は4人中2人が寮生活を送っている。合計すれば、16人中7人(44%)だ。

 本稿で取り上げる寮生活の多くは、地元の出身者が、地元や近隣都府県の名門校に進み、自宅ではなく、寮に住み込むというものだ。ただ、中には、少数だが、遠隔地に野球留学する人もいる。ダルビッシュ有、伊良部秀輝(尽誠学園)、筒香嘉智(横浜)、田中将大、福留孝介(PL学園)の5人だ。福留は鹿児島、残る4人は近畿地方出身だ。いずれも日本人としては珍しく、個性が確立した人物たちだ。ダルビッシュ有、田中将大をはじめ、MLBでも大活躍した選手が名を連ねる。

 なぜ、こんなに地域差が出るのだろうか。高校時代から親元を離れて寮生活をすることは、子供だけでなく、親も辛い。特に多くの母親は、可愛い息子を「手元に置いておきたい」と願うだろう。息子は、地元では名の知れた野球エリートだから尚更だ。

 かつて、子供を野球留学させた関西在住の母親と話し、「なぜ、親元から子供を離したのか」と聞いたことがある。お母さんは、迷うことなく、「皆さんがやっていましたから」と回答した。高校時代からの野球留学というのは、野球を志す関西の一部の家庭で「常識」となっているようだ。

遠方からの生徒を受け入れる進学校

 これは野球に限った話ではない。進学でも同様だ。西日本には、鹿児島県のラ・サール学園、長崎県の青雲学園、福岡県の久留米大学附設高校、高知県の土佐高校、愛媛県の愛光学園、兵庫県の白陵高校、奈良県の西大和学園、京都府の洛南学園など、東京大学に大量の合格者を出す高校が、遠隔地から入学する生徒を対象に寮を整備している。中には、中学生に対しても入寮を認めている学校もある。意外かもしれないが、関東圏にこのような進学校はない。

 私は神戸出身だが、小学校の同級生や先輩・後輩の中には、親元を離れ、ラ・サール中学や愛光中学に進んだ人がいる。中学生・高校生の国内留学は、関西人の私にとって、あまり違和感がない。このあたり、子供を野球留学させた関西在住の母親の感覚と相通じるものがある。

 では、なぜ、西日本で、このような学校が発展したのか。私は、中学生の国内留学導入の先駆けでもあるラ・サール学園や愛光学園が、ラ・サール修道会やドミニコ修道会などカトリック系団体によって設立、運営されていることに注目している。カトリック諸国では、古くから全寮制教育が行われている。日本にも導入したのだろう。

 歴史的経緯もあり、我が国のキリスト教徒は西高東低の分布をしている。2022年度の文部科学省の宗教統計調査によれば、人口1万人あたりのキリスト教徒が多いのは東京(670人)だが、ついで多いのは長崎県(480人)だ。上位10県のうち、8県までが近畿以西の府県だ。西日本の進学校で、国内留学生の受け入れが進んだのも納得できる。

 かつて、修道会は布教のために、極東の日本にまで「旅」をした。その恩恵は修道会自身だけでなく、はるか後世に、我々も享受していることになる。交流は双方に大きな利益をもたらす。

苦労が人を育てる

 話を野球に戻そう。一時、「『甲子園に出場したい』という思いから、激戦区の優秀な選手たちが比較的出場しやすい地区の名門校へ“流出”している」という理由で、野球留学が批判された。勿論、そのような側面は否定出来ないだろう。

 ただ、そんな近視眼的な議論で済ませていいのだろうか。MLBで活躍する日本人を見れば、苦労が人を育てるのは明らかだ。寮生活や野球留学の伝統があるからこそ、日本は世界有数の野球大国の地域を維持している。

 問題は、これからだ。コロナパンデミックで、リモート通信技術が発展した。人同士の接触は減り、一部の陰湿なイジメは残るものの、多くの若者は人間関係で苦労しなくなるだろう。これでは、若者の「適応力」は向上しない。国内留学や寮生活など、我が国の人材育成における伝統の価値を見直すべきである。

 

カテゴリ: 社会 スポーツ
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執筆者プロフィール
上昌広(かみまさひろ) 特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。 1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。
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