トランプ再選の根本にあるもの――「反知性主義」と「不寛容」のアメリカを読み解く
森本あんり『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』『不寛容論:アメリカが生んだ「共存」の哲学』(いずれも新潮選書)
アメリカ大統領選の結果を、皆さんはどのように受け止められただろうか。準備不足のまま担ぎ出されてしまった感のあるハリス氏だが、民主党陣営にはそれ以前からいくつかの大きな弱点があったように思われる。インフレによる物価高という身近な問題も、現政権への逆風になっただろう。だが、そういう当面の生活苦よりもう少し深い根本的なところで、民主党は人々の信頼を失いつつあったのではないか。その根っこにあるものに、拙著『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』『不寛容論:アメリカが生んだ「共存」の哲学』(いずれも新潮選書)で書いたことを通して近づいてみたい。
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『反知性主義』から見えること
一つはリベラル派のエリート化である。これはトランプ氏が最初に当選して世界を驚かせた頃からよく知られるようになった。反知性主義は、知性そのものへの反感というより、知性が特定の権力と癒着して既成化することへの反発である。反権威主義と言ってもよい。政治のアウトサイダーとしてワシントンへ乗り込んでいったトランプ氏は、反知性主義の格好の体現者だった。
では、自分自身が最高権力者となったらどうなるのか。彼の挑戦はそこで終わらない。今度は政権内部に存在するという「ディープ・ステート」を相手に、沼の泥を掻き出す作業に取りかかった。前回も今回も、勝ったのは共和党ではなくトランプ氏である。
対する民主党の変質も顕著である。かつては労働者の党だったのに、今は教育を受けたエリートの党に変わってしまった。これは、民主党が掲げる政策綱領を見れば明らかである。20世紀には労働団体の保護、課税の公平化、所得の再分配などを掲げていたのに、21世紀になると彼らの関心は妊娠中絶、男女平等、性や人種のアイデンティティに移ってしまった。問題は、それにもかかわらずいまだに彼らが自分たちは労働者の味方だと語り、おそらく自分たちもそう信じ込んでいたところにある。彼らが黒人やヒスパニックの票を当然のように当てこんで何もせずにいる間に、トランプ陣営は着々と彼らの票を取り込んでいった。
民主党の指導者たちは、クリントンもオバマも口を開けば「教育を受けろ」「大学へ行け」と言う。だが、それは結局「自分のようになれ」と言っていることになる。教育を受けたくても受けられない人に、成功者の驕りは快く受け止められないだろう。トランプ氏はそんなことを言わない。高学歴の人を真似する必要などない、悪いのはそう思わせている奴らだ、というのである。反知性主義は今も彼のトレードマークである。
『不寛容論』から見えること
しかし、今回の選挙に関していっそう強く感じられたのは、民主党のもう一つの欺瞞、すなわち移民問題の行方である。これには拙著『不寛容論』が深く関係している。
この4年間に起こったことを振り返ってみよう。「国境に壁を作る」と宣言して実行した第一次トランプ政権が終わり、移民に寛容なバイデン政権が誕生すると、メキシコ国境からの不法越境者数はうなぎ登りに増えていった。当時の世論調査では、共和党支持者の8割以上、民主党支持者でも3割が新政権の移民政策を支持しないと答えている。国境近くの州ではとりわけ不満が大きく、22年9月には、テキサス州知事が百人ほどの不法移民を2台のバスに乗せてハリス副大統領公邸前に送りつけている。バスを降ろされた移民たちは、自分がどこにいるのかすら理解していなかったというが、首都ワシントンで鷹揚な寛容論を説くエリート政治家たちに現実を突きつける効果は大きかった。その後もバイデン政権は流入を絞りつつ容認していたが、ついに今年6月には不法移民の即時送還へと方針を全面転換せざるを得なくなった。移民政策の破綻を認めたのである。
わたしはこれは当然の結果だと思っている。いかなる国家も、無制約に移民を受け入れ続けることはできない。国家資源が無限であるかのような政策は、非現実的な欺瞞である。かつて「歴史の終わり」を論じたフランシス・フクヤマは、今なおリベラリズムの本質的な正当性を信じる一人だが、その彼も国境を守ることは必要不可欠と考えている。市民権をむやみに開放すべきではない。「国境なくして国家なし」というトランプ氏の原則は正しい。
寛容と不寛容
だが、それは不寛容ではないか? その通りである。政治に責任をもつ者は、自分が不寛容と非難されることを引き受けねばならない。なぜなら、寛容は不寛容なしに成立しないからだ。ここに、『不寛容論』の著者としてわたしがどうしても言いたいことがある。
寛容は、相手を百パーセント肯定して受け入れることではない。寛容には肯定と否定の両方が含まれる。というより、相手を否定的に評価することなしに、寛容はあり得ない。「自分はアイスクリームに寛容だ」と威張る人はあまりいないだろう。好きなものに寛容になることはできないのである。つまり寛容とは、まず相手が嫌いだ、という前提があった上で、それでもなおその相手を受け入れることである。できれば相手を締め出したい。関わりたくもない。それをそのまま実行すれば、単なる不寛容だ。だが、その否定的評価を前提した上で、なお相手を部分的に受け入れる。その時はじめて、「寛容」という事態が成立するのである。
つまり寛容とは、相手を下に見て、本当は軽蔑しているのに、あえて恩着せがましく受け入れてやる、ということである。そんな受け入れられ方をしたら、相手だって傷つくだろう。だから現代リベラリズムでは、「寛容などという考えは時代遅れだ、お互いを完全に受け入れて平等な立場になるべきだ」と論じられる。
ここに根本的な誤解がある。寛容とは、そもそも不愉快な話なのだ。そこにはおのずと本音と建前の使い分けがある。本音では嫌いだけど、建前ではよしとする。嫌だけどしかたなく受け入れる。「それは表面だけを取り繕うごまかしだ」と言われるなら、その通りである。それでも、むき出しの暴力対決よりはよい。怒鳴り合うだけのヘイトスピーチよりはよい。どうしても折り合うことのできない原理的な対立がある場面では、それが共存の唯一の道である。拙著がロジャー・ウィリアムズという17世紀の頑固なピューリタンを通して主張したのはこのことだった。
近代啓蒙の誤解
現代人がこのような誤解をしているのは、近代啓蒙主義の浅薄な寛容論しか知らないからだ。だが寛容は、拙著で説明したように、人々が不寛容な暗黒時代だと思い込んでいる中世のカトリック教会でこそ高度に発達した概念であった。神学者トマス・アクィナスによれば、教会はユダヤ人に寛容でなければならない。それは、ユダヤ人を好きになれとか心から愛せよということではない。嫌いでもいい。でも、彼らを尊重して受け入れなさい。彼らを追い出したり、キリスト教を強要したり、暮らしを脅かしたりしてはならない――これが寛容の本義である。
したがって、その受け入れ方はあくまでも限定的である。中心ではなく周縁に置き、排除しないで存在を許容する。寛容は、相手を善と認めることではないし、両手を挙げて大歓迎することでもない。自分の家の居間や寝室にまで迎え入れる必要もない。
誰にだって苦手な相手はいるだろう。それでも礼節を尽くして相手と共存することはできる。もしそこで、「あなたの心の中まで入れ替えて、相手を心から歓迎しなさい」と言われたらどうだろうか。それはかえって「寛容の強制」という不寛容になるだろう。実は、それが西洋諸国が長くイスラム世界に取ってきた態度なのである。
心の中の本音部分を上手に処理する方法が実際の政策に生かされた例もある。カリフォルニア州の移民政策だ。かつて大量に流入する移民に拒否感を抱いていた人々も、”emotional space” と呼ばれる心の余裕をもつことができて変わるのだが、それはここでは論じない。
移民の歴史と現在
マイケル・アントンという保守思想家がいる。第一次トランプ政権下で国家安全保障担当副補佐官などを務め、今次の政権でも政権移行チームに入っている。彼はアメリカ市民権の出生地主義を批判して「アメリカは全人類の共同財産ではない」と論じた。アメリカの富は世界中の人々を引きつける磁石だが、移民は制限されねばならない、と言う。
だが、ここで誰もが不思議に思うだろう。アメリカは建国のはじめから「移民の国」だったのではないか。アントンの答えは「否」である。アメリカは「移民immigrantsの国」ではなく「植民者settlersの国」だ、というのである。植民者たちは、ゼロから出発して町を建設し、お互いに契約を結んで定住地とした。後からやってくる移民たちは、すでに定住した住民の同意がなければその社会に加わることができない。つまり彼らは、彼らが不適当と思う移民を拒否する自由と権利を法律的にも事実的にも有している。
わたしは植民地時代のアメリカを研究対象としてきたが、これを読んで驚愕した。アントンの文章が、四百年前のマサチューセッツ植民地総督ジョン・ウィンスロップの言葉とぴったり一致していたからである。拙著『不寛容論』39頁をご覧いただきたい。
「市民政府は、すべて自由な同意により創設される。何人もわれわれの同意なしにこの地に来て住むことはできない。われわれは、破滅や損壊の危険を招くと思われるものを排除する。これは合法的である。」(John Winthrop, 1637)
初期の植民者たちが不寛容だった理由もよくわかる。彼らは、長い航海の末に新大陸へ辿り着き、家も畑も道路も集会所も、すべて自分たちの手で造らねばならなかった。まさに無から(ex nihilo)の創造である。ようやく生活を整え収穫を喜ぶことができるようになったある日、いきなり見知らぬ人が手ぶらでやってきて、貴重な労働の果実を彼らと平等に享受するとしたら、どうだろうか。
もちろんここには、先住民がいたことや、その後四百年にわたり蓄積された富の偏りが今も差別の溝を広げ続けていることへの視点が付け加えられねばならないだろう。だが少なくとも、厳しい対立で分断された今日の世界には「よい子のお道徳」を超える新しい寛容理解が必要だ、ということはご理解いただけると思う。来たるべき不寛容の時代に備え、拙著が小さなアップデートの機会を提供できればと願っている。
- ◎森本あんり(もりもと・あんり)
1956年、神奈川県生まれ。東京女子大学学長。国際基督教大学(ICU)卒。東京神学大学大学院を経て、プリンストン神学大学院博士課程修了。国際基督教大学人文科学科教授を経て、現職。専攻は神学・宗教学。著書に『アメリカ的理念の身体』(創文社)、『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)、『宗教国家アメリカのふしぎな論理』(NHK出版新書)、『異端の時代』(岩波新書)、『キリスト教でたどるアメリカ史』(角川ソフィア文庫)、『不寛容論:アメリカが生んだ「共存」の哲学』(新潮選書)、『教養を深める:人間の「芯」のつくり方』(PHP新書)、『魂の教育:よい本は時を超えて人を動かす』(岩波書店)。