戦場でかつて、ジャーナリストは傍観者と位置づけられ、時には歴史の証言者として敬意も払われる存在だった。「PRESS」の表示を掲げることは、安全の確保にも結びついていた。先人の長年にわたる活動がその地位を築いたからであると同時に、双方の当事者にとって、メディアを味方に付けること、自らの正統性を広く伝えてもらうことが、有効な戦略となっていたからでもある。
その慣行が崩れ始めたのは、1つには国際テロ組織などノンステートアクター(非国家主体)が紛争にかかわるようになり、国家同士の取り決めが通用しなくなったからだろう。もう1つには、SNSによる発信やプロパガンダが影響力を強め、「メディアを敵に回しても構わない」と紛争主体が考えるようになったからでもある。その傾向は、ロシア・ウクライナ戦争やハマス・イスラエル紛争で、特に目立つ。攻撃する側にとって、ジャーナリストは今や、自分たちの言うことを聞かない邪魔な存在、現場から排除したい対象であり、つまり「標的」なのである。
かくして、ウクライナのロシア占領地やパレスチナ自治区ガザなどでは、ジャーナリスト自体を狙う攻撃が相次ぎ、メディアの活動が極めて限られた結果、攻撃する側に都合のいい情報ばかりが流されるようになった。
ガザの場合はそれでも、地元の記者や外国メディアの通信員らが、危険を冒しながらも活動を続けている。ウクライナのロシア占領地の場合、そのような機会さえ奪われている。地元のジャーナリストはほぼ全員が、拘束されるか、逃亡するか、ロシアのプロパガンダ機関の傘下に入るかの選択を迫られた。外部から取材に入る道も大部分が閉ざされている。
以下に追うのは、そのような状況の中でただ1人ウクライナ側から占領地に入り、生還できなかった若いジャーナリストの軌跡である。
占領地に入った唯一の記者
キーウの街中の丘に位置するバイコベ墓地は、政治家や芸術家らウクライナの名士が葬られる場所である。初代大統領レオニード・クラフチュク、作家レーシャ・ウクラインカ、航空機設計者オレーク・アントノフといった著名人がここに眠る。ウクライナの墓地はどこでも、故人の業績や人柄を刻んだ立派な墓石が並ぶが、ここの墓はどれもひときわ豪華なつくりで、まるで彫刻公園のようでもある。
その一番奥近く、谷を挟んで正面にキーウの高層ビル群を望む斜面に2025年8月8日金曜日の午後、真新しい墓穴が掘られていた。この日葬儀を迎えたジャーナリスト、ヴィカことヴィクトリヤ・ロシナ1の墓である。享年27歳だった。
葬儀はこの日、ドニプロ川を見下ろす聖ミハイル黄金ドーム修道院で正午から営まれた。ジャーナリスト仲間や知人ら約200人が参列して花を手向け、筆者もカーネーションの束を柩に添えた。柩は続いて、修道院から徒歩で10分ほど下った独立広場(マイダン)の追悼集会に運ばれた。ヴィクトリヤの同僚たちがマイクを握り、思い出を語った。通りがかりの市民も跪いて柩を見送った。
追悼集会に集まった人々の多くはそこで立ち去り、埋葬に立ち会ったのは家族や近しい間柄の元同僚ら10人ほどに過ぎない。家族が2人だけだったのは、まだその死を信じようとしないからだという。柩に紐をかけ、深さ約2メートルの墓穴の底に作業員が4人がかりで下ろす。スコップで穴を埋める彼らの横で、参列者が一塊の土を1人ずつ柩の上に投げ入れる。この地方のしきたりである。
土を握った女性の1人は、日本だとNHKにあたるウクライナ公共放送『ススピリネ(社会)』の会長顧問、前報道局長のアンゲリーナ・カリャキナ(40)だった。2021年に30代で報道局長に就任し、育児などを理由に23年に退任するまでロシア軍全面侵攻の取材を指揮していた。
カリャキナは、2020年に『ススピリネ』に引き抜かれるまでの約3年間、オンラインTV『フロマドスケ(公共)』の編集主幹を務めていた。その時の部下がヴィクトリヤである。
ヴィクトリヤは無口で、社交性に乏しく、内に籠もる性格の女性だったという。笑うことはめったになく、私生活も語らなかった。コーヒーはよく飲んでいたが、何かを彼女が食べる姿を見た人はいないという。同僚と連れだって食事に行くこともなかった。
「彼女にどのような家族がいて、友達が誰で、どんな人生を送ってきたか、誰も知りませんでした。今回彼女が殺されて、その家族とかかわるようになってわかったのですが、彼女には私生活がなかったのです。彼女の人生は、ジャーナリズムがすべてだった。彼女は24時間ジャーナリストでした」
カリャキナはこう振り返る。
ウクライナは2025年現在、東部や南東部を中心に国土の約18%をロシアに占領されている。そこでは言論が封殺され、拷問や監禁が常態化していると、数々の証言が示している。ただ、戦線が膠着化して以降、ウクライナのメディアは入域できなくなり、地元のジャーナリストたちもウクライナ側に脱出したり、ロシア当局に拘束されたりで、実態を伝える手段は閉ざされている。現地への立ち入りを認められるロシアのメディアは、プーチン政権のプロパガンダを担う組織に限られる。
そのような状況下、ヴィクトリヤ・ロシナはウクライナ側からあえて危険を冒して現地に入り取材を試みた、唯一のジャーナリストである。
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