行き先のない旅 (34)

冷凍庫よりも寒いモスクワにて

執筆者:大野ゆり子 2006年3月号
エリア: ヨーロッパ

 ある朝起きてみると、鼻がなくなっている。鼻があるはずの場所は、のっぺりとしたパンケーキのようになってしまい、美男子を自任していた男は、呆然となり、他人を逆恨みし、やがて自分の「鼻先」をかすめて逃げ回る鼻を追い掛け回す――。 最低気温マイナス三十度まで落ちた一月中旬、モスクワに到着して、突然ゴーゴリの小説「鼻」を思い出した。通常の冷凍庫の温度設定がマイナス二十度。それよりも十度低い温度では、鼻はなすすべがない。ロシア人の友人が、耳まですっぽり隠れる毛皮の帽子を貸してくれたので、それを被り、靴下やセーターを重ね着し、手袋をはめ、マフラーをぐるぐる巻きにし、できる限りの防寒は心がけた。

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執筆者プロフィール
大野ゆり子(おおのゆりこ) エッセイスト。上智大学卒業。独カールスルーエ大学で修士号取得(美術史、ドイツ現代史)。読売新聞記者、新潮社編集者として「フォーサイト」創刊に立ち会ったのち、指揮者大野和士氏と結婚。クロアチア、イタリア、ドイツ、ベルギー、フランスの各国で生活し、現在、ブリュッセルとバルセロナに拠点を置く。
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