【ブックハンティング】調査報道へのこだわりから見えてくるジャーナリズムの未来

執筆者:渡辺靖 2012年3月5日
タグ: 日本 アメリカ
『官報複合体』
牧野洋著
講談社
『官報複合体』 牧野洋著 講談社

 学部時代の2年間、私はある放送局の国際部でアルバイトをしていた。昭和天皇の崩御から天安門事件、「ベルリンの壁」の崩壊まで、歴史的な出来事が相次ぐなか、ジャーナリズムの道に進むか、大学院留学を目指すか迷っていた自分にとっては極めて有意義な経験となった。  ただ、結論からいえば、私はジャーナリズムの道を諦めた。理由は色々あるが、学生ながら幻滅した現実の1つに「プール方式」というのがあった。加盟局が幹事を決め、各局の特派員が取材リポートを順送りで送信するシステムだ。コスト面からやむを得ないとしても、同じ立ち位置から同じ情報が発せられる様は私が憧れていたジャーナリズムの姿とはあまりにかけ離れたものだった。懇意にしていた上司に疑問をぶつけると「“ジャーナリスト”なんて言えるのは、うちの会社でもせいぜい2、3人だよ」と諭された。  あれから20年ほどの歳月が流れ、ネット世代の学生を教える立場になって痛感するのは、既存のメディアに対する彼らの冷やかな目線だ。政治から芸能まで、彼らは「情報」の背後にある「大人の事情」に敏感で、ときに失望し、憤慨し、嘲笑する。それも一種の「メディア・リテラシー」には違いないが、下手をすると、日本国内のドメスティックな常識に囚われた狭い議論や、無力感から生ずるシニシズムに陥る危険性がある。  その意味で本書『官報複合体』(牧野洋著)は極めて有益かつ重要な1冊である。  著者は日本経済新聞で編集委員まで務めたエリート記者。チューリヒ支局長やニューヨーク駐在キャップなど海外経験も豊富だ。さらには新聞王ピューリツァーによって創設され、ジャーナリズム教育の分野で世界的な名声を誇る米コロンビア大学のジャーナリズム大学院(“Jスクール”)で学位も取得した。現場を知らない批判、日本の事情しか知らない批判、ジャーナリズム論をわきまえない批判など、巷に溢れる安手のメディア批判とは明らかに一線を画している。  G20サミットから東日本大震災、郵便不正事件、村上ファンドまで、さまざまな報道事例を分析し、ウォーターゲート事件やトヨタのリコール問題をめぐる米国の報道と比較することで、著者は「ガラパゴス化」した日本の報道を見ていただけでは気付かない「メディア・リテラシー」の盲点をこれでもかというくらい綿密に、鋭く、深く自己切開してゆく。「日本の新聞界は100年前のアメリカと同じだ」と手厳しい。  権力とメディアの癒着によって、本来あるべき「調査報道(権力監視型報道)」が日本では「発表報道」に成り下がっている、つまり題名にあるように「官報複合体」化しているという指摘も、米国の厳しい報道姿勢や倫理規定と照らし合わされることで、より切実な重みを持って私たちに迫ってくる。とりわけ「情報出所の扱い」から「事実関係の再検討」にいたる米国の調査報道のスタンダードの高さや、Jスクールにおけるトレーニングの厳しさは驚きの連続で、冒頭に紹介した私の元上司の言葉の意味が初めて分かった気がした。

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執筆者プロフィール
渡辺靖(わたなべやすし) 慶應義塾大学SFC教授。1967年生まれ。1990年上智大学外国語学部卒業後、1992年ハーバード大学大学院修了、1997年Ph.D.(社会人類学)取得。ケンブリッジ大学、オクスフォード大学、ハーバード大学客員研究員を経て、2006年より現職。専門は文化人類学、文化政策論、アメリカ研究。2005年日本学士院学術奨励賞受賞。著書に『アフター・アメリカ―ボストニアンの軌跡と〈文化の政治学〉』(サントリー学芸賞/慶應義塾大学出版会)、『アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所』(新潮選書)、『アメリカン・デモクラシーの逆説』(岩波新書)、『リバタリアニズム-アメリカを揺るがす自由至上主義』(中公新書)、『白人ナショナリズム-アメリカを揺るがす「文化的反動」』(同)などがある。
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