Bookworm (43)

藤井太洋『ハロー・ワールド』

評者:杉江松恋(書評家)

2018年12月1日
タグ: 中国 ドイツ 日本
エリア: ヨーロッパ アジア

ネット情報技術の最先端を
題材に“未来の可能性”を描く

ふじい・たいよう 1971年、奄美大島生れ。2012年、電子書籍で個人出版した『Gene Mapper』が話題となり、翌年、完全版刊行。『オービタル・クラウド』で日本SF大賞受賞。

 ドイツがまだ東西に分断されていた1983年、歌手のウド・リンデンベルクは「パンコウ行き臨時列車」の歌詞に当時の東ドイツ最高権力者エーリッヒ・ホーネッカーの名を出し、俺を東ベルリンで歌わせろよ、と挑発した。西側のラジオでウドの曲が流されれば、東側でも聴く者は出る。ベルリンの壁は電波まで遮断できず、情報は国境を越えて飛び交った。そして1989年、壁が壊されてドイツの統一がなし遂げられる。
 情報の自由な流通が体制を揺るがす最も効果的な方法だということを前世紀の劇的な体制の変化は証明した。世界に普及したインターネットは、そのための最大の武器である。
 だがインターネットは、いつも壁を壊すために使われるわけではない。逆に壁を強化し、情報を統制するための道具になることもある。そこは永遠に自由な場所ではないのだ。
 藤井太洋『ハロー・ワールド』は、インターネットの自由を守るために何かをできないか、と考える技術者たちの物語だ。5篇から成る連作短篇集であり、それぞれがブラウザアプリ、ドローン、ウェブニュース、SNS、仮想通貨といった話題を扱っている。情報技術の今を知るために読むのも、もちろんありだ。
 SNSについて書かれた「巨象の肩に乗って」は2017年に雑誌発表された全短篇の三指に入る作品だと私は考えている。情報技術者の文椎泰洋(ふづいやすひろ)はある日、ツイッターが中国でも使えるようになったことを知り衝撃を受ける。それは運営会社が、中国当局に利用者の情報提供を始めたことを意味するからである。ツイッターの勝利どころか敗北だ。体制の支配から離れた自由な場を確保できないかと考えた文椎は、ある着想を実行に移す。それがどんな影響を引き起こすかは、まるで考慮せずに。
 題名の「巨象」は実在するプログラム、マストドンのことである。マストドンについてのわかりやすい解説が導線となって、読者は物語の中に引き込まれていく。現実にはまだない、しかし存在してもおかしくない技術が描かれ、それによって作り出された状況が展開していく。1つの技術を通じて現実と虚構が物語の中で接続するのである。
 巻末の「めぐみの雨が降る」は、情報技術の恩恵が一部に独占されている現実を指摘し、それを広い層に開放しようとする物語である。各篇に共通するのは、未来はまだ技術によって改変可能であるという強い信念だ。ありうべき世界はそこにあると藤井は言い、ハローと呼びかける。

カテゴリ: 社会 カルチャー
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