ウクライナで信仰される主たる宗教はキリスト教であり、なかでも正教会が圧倒的多数となっている。キーウ国際社会学研究所(KIIS)による2022年7月の世論調査[1]によれば、ウクライナ人の宗教への帰属意識は、正教会が72%、無神論が10%、ギリシャ・カトリック教会が8%、プロテスタントが2%、その他のキリスト教宗派(「エホバの証人」などを含む)が2%、ローマ・カトリックが1%となっている。
ウクライナにおける正教会は、一般に「ウクライナ正教会」と呼ばれる。しかしながら、2023年5月現在、「ウクライナ正教会」と呼ばれる教会組織には、キーウ府主教庁系のウクライナ正教会(以下、OCU)とモスクワ総主教庁系のウクライナ正教会(以下、UOC MP)という、二つの対立する「ウクライナ正教会」が存在する。今、ロシアのウクライナ侵攻が続く中で、「ウクライナ正教会」の扱いが大きく変化しつつある。
ウクライナにおける二つの正教会
UOC MP(Ukrainian Orthodox Church of the Moscow Patriarchate)とは、その名の通りモスクワ総主教の管轄下にある正教会組織であり、ロシア正教会、そしてロシア国家との関係が深い。歴史的には、10世紀、ルーシの聖公ヴォロディミル(露:ウラジーミル)1世の洗礼以降、キーウの衰退とモスクワの伸長に伴ってルーシにおけるキリスト教の中心地がモスクワへと移りロシア正教会が勢力を増す中で、ウクライナの地の正教会もロシア正教会の傘下に組み込まれていったが、ウクライナの正教会組織でありながらそのままモスクワの権威を維持しているのがUOC MPである。
対してOCU成立の経緯は少々込み入っている。20世紀、ロシア革命とソ連成立の合間、モスクワ総主教庁からの独立とウクライナの自治教会の創出を目指す動きが生まれ、ウクライナ独立正教会(UAOC)が成立した。しかし、UAOCはソ連当局により禁止、激しい弾圧を逃れて信者や聖職者は北米等に渡り、ソ連末期にウクライナ独立の気運が高まる中でようやくウクライナでの活動再開が叶った。これとは別に、ウクライナの独立に伴い、ウクライナ正教会の主教会議にて、キーウに独自の首座主教を持つ独立教会(Autocephaly)としてキーウ総主教庁系ウクライナ正教会(UOC KP)が成立した。つまり、独立後のウクライナでは、UOC MP、UAOCそしてUOC KPの3系統の「ウクライナ正教会」が併存していたのである。
この3系統並立という状況下で「ウクライナ正教会」の統一が目指されてきたが、2014年のクリミア侵攻とドンバス紛争の発生によりロシアへの反発が強まる中で、2018年、UAOCとUOC KPが統合し、エピファニー府主教を首座主教とする新たな「ウクライナ正教会」としてOCUが成立、翌2019年にはコンスタンティノープル全地総主教庁から正式に独立教会の地位を認定された。
こうした経緯を経て、現在の二つの「ウクライナ正教会」の併存という状況が生まれている。
なお、モスクワ総主教庁はUOC MPがウクライナにおける唯一の正当な正教会であるとして、UOC KPの成立期以来、ウクライナ独自の正教会組織を認定する動きに強く反発しており、2018年にはOCUの承認如何を巡ってコンスタンティノープル総主教庁との断交に至っている[2]。
前述のKIIS調査によれば、正教会の信徒であるとの自覚を持つ72%のうち、54%がOCUへの帰属意識を有し、対してUOC MPは4%、特定の正教会組織への帰属意識の無い者が14%となっている。興味深いのは、この割合が過去数年で大きな変化を見せている点である。2020年と2021年の同調査ではOCUがそれぞれ34%と42%であり、2022年7月時点に向けて着実かつ大きな増加を見せているのに対して、UOC MPではそれぞれ15%と18%で、同時期に顕著に急減していることが分かる。こうした宗教意識の変化の背景に、2022年2月24日のロシアによる全面侵攻や、ロシア正教会の首座主教でありウラジーミル・プーチン大統領と関係の深いキリル総主教による、聖職者でありながら侵略や露軍の残虐行為を正当化する数々の発言があることは疑いない。
UOC MPの排除に向けた動き
戦時という状況下で、侵略国であるロシアとの繋がりの深いUOC MPは、単なる国民の信仰の問題という範疇を超え、政府レベルでの懸案事項となっている。
ウクライナ政府によるUOC MPの扱いにおける大きな転機となったのが、2022年12月1日付のウクライナ国家安全保障・国防会議(NDSC)決定[3]である。……
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