
私は新聞社やテレビ局に勤める職業ジャーナリストでも、軍事専門家でもない。日本で生まれ育った20代後半の日本人大学院生だ。ただ、気になったことがあれば自分の目で確かめに行くことが、幼い頃から自然に身についた習慣だった。他人の言葉やメディアの報道を鵜呑みにせず、一次情報を自分で取りに行き、事実を見極めたいという思いが常にある。
ウクライナへの渡航も、まったく同じ動機からだった。日本のメディアやSNSで語られていることは、どこまでが真実なのか。そして、もし“報道されていない現実”があるとすれば、それはどんなものなのか。
戦場取材に興味をもったのは、高校生の頃。2015年、過激派組織ISISによって、シリアで日本人ジャーナリストらが殺害されるという衝撃的な事件がきっかけだ。危険な戦地に向かった彼らの行動に対し、日本国内では「自己責任論」や「首相の責任論」など、責任の所在ばかりが議論された。しかし私は、なぜ彼らが命を懸けてまで現地に向かったのか、その「動機」に強い関心を抱いた。誰もが避けるような危険地帯に足を踏み入れ、現地で見たこと・聞いたことを日本に伝えようとするその姿勢に、報道の本質と社会的な意義を感じた。そして、自分もいつか、そんな報道に関わる人間になりたいと憧れた。
そして、ロシアの本格侵攻開始から3年を迎える前、ようやく現地へ行く機会が訪れた。なお、筆者側の諸事情により、本稿は編集部の了解を得て「菅原春二」という仮名で寄稿させていただく。
恋人を失った女性が取材を受けてくれた理由
2024年秋。私は、ポーランド東部の街ルブリンのバス停に立っていた。そこから夜行バスで7時間かけて、ウクライナ西部の都市リヴィウへ向かう。チケットとパスポートを見せてバスに乗り込む。車内はざわめきに満ちていた。乗客のほとんどはポーランドからウクライナへ戻る女性だ。国民総動員令により、18歳から60歳のウクライナ人男性は、一部の特例を除き国外に出ることが禁止されている。女性しかいないバスの車内は、すでに戦争の現実を静かに物語っていた。
夜中の2時。予定より少し早く、バスは国境に到着した。深夜ということもあり、車列は短い。15分ほどでゲートが開き、私たちのバスの順番が来た。乗客全員がいったんバスを降り、ウクライナ側の入国審査が行われる建物へと向かう。審査を担当するのは、戦闘服を着たウクライナの兵士たちだった。

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