日本のODAはなぜミャンマーの民主化を支えられなかったのか:中川正春「ミャンマーの民主化を支援する議員連盟」元会長インタビュー(上)
民主党政権時代に深まったミャンマー少数民族との関係
服部龍二(以下、服部) 「ミャンマーの民主化を支援する議員連盟」でのご活動についてお聞きします。議連は35年ぐらいの歴史があるそうですが、設立の経緯や、2021年の軍事クーデター前までの活動について伺えますか。
中川正春(以下、中川) 議連ができたきっかけは、アウンサンスーチーの活動への支援が目的だったと思います。超党派の議連で、中道的な考え方を持つ人たちの集まりでした。私は途中から会長という立場で議連を引っ張ってきましたが、会長就任当時は、比較的民主化の方向に向かっていたテイン・セイン政権をどう支援していくかが課題でした。
この議連の他には、自民党議員を中心とした「日本・ミャンマー友好議員連盟」や、先日亡くなられた渡邉秀央さん(元郵政大臣)のグループ(「日本ミャンマー協会」)、日本財団などがあり、彼らはどちらかと言えば軍事政権と密接につながりを持ちながら、ミャンマーに対するODA(政府開発援助)を主導してきたのだと思います。バゴー橋の建設や鉄道の再生、ティラワ工業団地開発といった大規模インフラ建設などを中心に、民主化の流れを支える支援体制がありました。
われわれ民主党が政権を取った時に、ミャンマーでもテイン・セイン体制が民主化へ動き出したので、大幅に円借款債務を免除するようなこともやりました。野田佳彦さんが総理大臣の頃だったと思います。しかし、残念なことにその後、2021年の軍事クーデターで情勢がすっかり変わってしまいました。
議連会長をやっていく中で、民主化以外に大事な課題があることに気付きました。平和を構築し、真の連邦国家建設を実現するためには、分断され相互に戦い続ける少数民族との和解が不可欠だということです。テイン・セイン政権になって、パンロン会議(注:独立目前の1946~47年に開催された、少数民族の処遇をめぐる会議)の再開が試みられ、和平交渉がスタートしたかに見えた時がありました。少数民族サイドでも、これまでバラバラでお互い反目さえしていたあり方を見直し、一つになっていくような流れができていた。全国規模停戦調整委員会(NCCT:The Nationwide Ceasefire Coordination Team)と言います。そのための少数民族による予備会合がタイのチェンマイで開かれ、日本からは私がオブザーバーという形で参加しました。それら少数民族のリーダーたちが、次は日本に行きたいという話になりました。特に日本の閣僚レベルに会って、ミャンマーの実情を説明したいということでした。
外務省に掛け合って、外務大臣との面談を求めたのですが、外務省はそこまでのコミットはできないというので、野田政権で文科大臣だった私が会うことで少数民族の皆さんには了解してもらおうということになりました。そこから少数民族のリーダー達とのパイプができました。
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