インテリジェンス・ナウ

不発に終わった元リビア情報機関トップへの説得

執筆者:春名幹男 2011年3月16日
エリア: 中東 北米
今月10日、エチオピアのアジスアベバで開かれたアフリカ連合の会議に出席したリビア・クーサ外相(中央) (C)EPA=時事
今月10日、エチオピアのアジスアベバで開かれたアフリカ連合の会議に出席したリビア・クーサ外相(中央) (C)EPA=時事

 リビア反政府勢力のデモが一時的に首都トリポリにまで及んだ2月26日、ワシントン郊外、米中央情報局(CIA)本部近くのバージニア州マクリーンの自宅で、インテリジェンス界では有名なCIA要員が皮膚がんで死去した。  ベン・ボンク氏、享年56歳。  CIAの一部局である「政治的イスラム戦略分析計画」担当部長としての現職死亡だった。元々、身分は分析官で、国家対テロセンターのナンバー2や中東・南アジア担当国家情報官を務めたが、同時に秘密工作まで手がけるという極めて異例の存在だった。  ボンク氏は、リビア最高指導者カダフィ大佐の右腕で「死の大使」とも呼ばれたムーサ・クーサ現対外連絡・国際協力書記(外相)と極秘に個人的関係を切り開いた伝説的なスパイとしても知られている。クーサ氏のことは、フォーサイト誌2004年2月号の本連載でも紹介した(「インテリジェンス・ナウ 前面に出たリビア情報機関『死の大使』の異名をとる男」)。  ボンク氏が2001年、サウジアラビアのバンダル王子(元駐米大使)がロンドンに保有する隠れ家で最初にクーサ氏に会った時、クーサ氏は対外安全局(ESO)長官などを兼務するリビア情報機関のトップだった。  2人は偶然にも米ミシガン州立大学の同窓生だった。ともにバスケットボールのファンで、すぐに打ち解けた。  もちろん2人の関係だけで、06年に米国とリビアが外交関係を正常化できたわけではない。だが、リビアが国連安保理の制裁決議を科せられるきっかけとなった「パンナム機爆破事件」(1988年)の解決や、大量破壊兵器開発計画の放棄で、2人が重要な役割を果たしたのは事実である。

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執筆者プロフィール
春名幹男(はるなみきお) 1946年京都市生れ。国際アナリスト、NPO法人インテリジェンス研究所理事。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授、早稲田大学客員教授を歴任。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『米中冷戦と日本』(PHP)、『仮面の日米同盟』(文春新書)などがある。
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