大災害は、時に歴史を動かす。
たとえば、12世紀初頭に荘園公領制という土地制度が発展し、15世紀後半から16世紀にかけて荘園公領制が崩れ、武士が台頭し戦乱の時代が訪れるが、どちらの転機にも、大災害がからんでいた。
ちなみに、荘園公領制とは、私的な荘園と公的な公領が併存した状態をいう。
天仁元年(1108)7月、浅間山(長野県と群馬県の県境)が大噴火を起こし、東側一帯の土地に火山灰が降り積もり、田畑や用水路がことごとく埋まってしまった。群馬県といえば「うどん」が有名だが、その理由は、この時水田が使い物にならなくなったからとする説がある。
それはともかく、目聡い豪族たちは、荒廃した土地を開墾し直し、私有地にしてしまった。関東の大開墾時代が始まったのだ。その土地を、天皇家や摂関家、貴族や寺社などの権門に寄進し、荘園が生まれ、豪族たちは地頭や郷司となった。ここに、荘園公領制が発展する要素が整ったとされている。
中央の貴族たちは、笑いが止まらなかっただろう。地方豪族が勝手に荒地を開墾し、寄進してきたからだ。また豪族たちが武士団を形成し東国武士団が生まれたのも、これがきっかけだった。
さらに、こののち14世紀になると、都市や市が発達し、輸入貨幣によって経済が活性化され、バブル経済が出来していた。
ところが、15世紀末の大災害によって、転機が訪れる。それが、明応7年(1498)8月25日の巨大地震だ。震源は遠州灘で、マグニチュードは8.2-8.4。浜名湖が外海につながったのはこの時だった。大津波が押し寄せ、紀伊半島の紀ノ川流域から房総半島まで、大きな被害が出た。鎌倉の長谷寺の堂舎も津波に押しつぶされた。
太平洋航路が寸断されたことで、伊勢大神宮権力の衰退、北条氏の伊豆制圧、室町幕府の出先政庁として東国を支配していた鎌倉府体制が崩壊する事態を招いた。流通の断絶だけではなく、寒波と飢餓が襲い、荘園公領制そのものが崩壊し、バブルははじけたのだ。そして、戦乱の時代の幕は切って落とされた。戦国時代の遠因は、遠州灘の大地震だったわけである。
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