2012年のノーベル賞受賞者を眺めてみると、独特の「法則」が鮮明に見えてくる。その法則とは、順風満帆・国力隆盛な時期には賞の栄誉はもたらされず、政治や経済が停滞・衰弱して、国力に翳りが見えた時に、賞の女神は微笑む、というものだ。 筆者は科学記者として、自然科学系のノーベル賞を長く観察してきて、選考を担当する欧州の科学者たちによるこの「秘められた寓意」を、ずっと感じてきた。
バブル期には受賞者ゼロ
英国病などと言われ、存在感の薄くなった1970年代から80年代の英国に、立て続けに自然科学系ノーベル賞の受賞者が生まれた。ノーベル賞には珍しく、1979年には、X線CTという応用技術の開発者、英国のEMI社の技術研究者に生理学・医学賞を贈っている。
逆に日本はそのころ、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどといわれ、有頂天でバブルにまみれていた。当然、87年に利根川進氏が生理学・医学賞を受賞してから13年間、日本に自然科学系のノーベル賞はゼロだった(94年に大江健三郎氏が文学賞を受賞している)。
バブルが崩壊し、失われた10年に入り、ジャパン・パッシングなどと揶揄されて国の存在感が薄れ始めると、2000年に白川英樹氏が化学賞を受賞し、2001年に野依良治氏、2002年には田中耕一氏と、3年続けて化学賞が日本人にもたらされた。2002年は小柴昌俊氏が物理学賞を受けており、物理と化学のダブル受賞だった。
2008年、リーマンショックの年には、南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3氏が物理学賞、下村脩氏が化学賞と、4人が同時受賞した。リーマンショックの傷は先進国の中では比較的浅かった日本だが、ノーベル賞の最終選考は2008年の春から夏で、リーマン・ブラザーズが破綻する前だ。この年の初め、ダボス会議では、「Japan: A Forgotten Power?(日本は忘れられた大国か)」というセッションが開かれるほど、日本の国際社会でのプレゼンスは急低下していた。
そして2012年、東日本大震災と福島原発事故の翌年、日本人2度目の生理学・医学賞を山中伸弥京大教授が受賞した。
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