フィリピン人質事件が見せた香港「一国両制」の本質(下)

執筆者:野嶋剛 2010年9月10日

尖閣諸島の問題もちょっと書いてみたいところですが、とりあえず、以下、前回の続きです。

 1997年の香港返還時に定められた「香港基本法」は、その第二条で香港が「高度な自治を行使できる」と規定しています。一方で、第十二条では外交は中華人民共和国外交部の管轄となっています。ただ基本法は、香港特別行政区政府が「中央政府から授権された対外事務」を行うことも認めています。なかなか、複雑な状況なのです。
 香港の一部の評論家や学者は曽行政長官の電話に「越権行為だ」とかみつきました。曽行政長官には、外国のトップに電話をかける権能がないという立場です。どちらかというと、親中的と目される立場の人々です。
 これに対し、ある学者は「香港はWTOにも加盟しており、対外交渉権は持っている」と反論しました。また別の学者は、香港には「サブ・ソブリン(sub-sovereignty)」(地方主権とでも訳せましょうか)があり、人質の安全確保を目的とした曽行政長官の電話は国家の外交ではなく、香港政庁として必要かつ当然の行動だ」と指摘しました。
 結局、この電話問題は、曽行政長官が事前に中国側に了解を得ていたことが分かり、「授権された対外事務」だったということで議論は落ち着きつつあります。
 
 得点を稼いだのは、曽行政長官と中国でした。
 経済政策の失敗などで支持率が低迷気味の曽行政長官に対し、珍しく香港市民から称賛の声が集まりました。
中国政府も曽行政長官を非難せず、逆に擁護することで、「寛容さ」を示すことに成功しました。民主選挙の導入が近づくなか、香港市民の嫌中感を減らす効果をもたらすでしょう。
同時に、一国二制度による将来の統一を目指す台湾に対しても「怖がらなくても、大丈夫ですよ」というメッセージとして伝わることは計算済みです。フィリピン政府への中国政府の厳しい対応も、パフォーマンス的なにおいがぷんぷんします。
 
香港の主権問題は「高度な自治」の範囲が明確でない部分もあり、法理的には脆弱性を持っています。香港返還から13年が経ちましたが、「高度な自治」の中身が試されたことはほとんどなく、今回の人質事件は「一国二制度」の本質を考えさせる貴重なテストケースになりました。
                               (野嶋)
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執筆者プロフィール
野嶋剛(のじまつよし) 1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)、『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)、『謎の名画・清明上河図』(勉誠出版)、『銀輪の巨人ジャイアント』(東洋経済新報社)、『ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち』(講談社)、『認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾』(明石書店)、『台湾とは何か』(ちくま新書)、『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』(小学館)、『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)など。訳書に『チャイニーズ・ライフ』(明石書店)。最新刊は『香港とは何か』(ちくま新書)。公式HPは https://nojimatsuyoshi.com
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