4月6日に検定合格した中学校教科書に、朝鮮半島南部の「任那(みまな)日本府」の記載があり、韓国のマスコミは非難の声をあげた。李完九前首相も、「歴史歪曲」と発言し、韓国国会の「東北アジア歴史歪曲対策特別委員会」は「安倍政府の独島(日本名・竹島)領有権の侵奪および古代史の歪曲に対する糾弾決議案」を採択している。
「任那日本府」の何が問題なのだろう。
外交使節の滞在先?
そこでまず、「任那」について、基礎知識を頭に入れておこう。『日本書紀』は、朝鮮半島最南端の海岸地帯の伽耶(かや)諸国(小国群)を、「任那」と一括して呼んでいる。交通の要衝で、多島海を利用して栄えた。
最古の「任那」の記録は、西暦414年に建てられた高句麗好太王碑の銘文に刻まれた「任那加羅」だが、不思議なことに、こののち「任那」は、朝鮮側の史料にほとんど登場しなくなる。一方中国の『宋書』は、5世紀の倭の五王に関連した記事の中で「任那加羅」を記録している。
『日本書紀』における任那の初出は、崇神65年秋7月条の朝貢記事だ(おそらく4世紀)。その5年後の垂仁2年是歳条にも任那関連記事が取りあげられていて、さらに応神7年秋9月条には、「高麗人、百済人、任那人、新羅人が来朝した」とも記録される。
そして問題の「任那日本府」の初出記事は、欽明2年(541)夏4月条だ。新羅と百済に領土を侵食された任那が倭国に助太刀を頼み、これに応え安羅(慶尚南道咸安)に拠点を構えたと『日本書紀』はいう。
ただし朝鮮側の史料に、この「日本府」の文字はない。ならば、「任那日本府」、どのように判断すればよいのだろう。
韓国の史学者、考古学者、マスコミ、政治家も、古代朝鮮の優位性を信じて疑わないから、「任那日本府などなかった」と主張し、『日本書紀』が「任那日本府」を捏造したというのである。
そして近年、朝鮮半島の考古学の進展によって、任那日本府に関して、日韓の史学者に、共通の認識が生まれつつあると言う。すなわち任那日本府は、6世紀前半に倭の外交使節が短期滞在した「安羅倭臣館」にすぎないというのだ(朴天秀『加耶と倭』講談社選書メチエ)。
日本人自身も「先進の文物は朝鮮半島から一方的に流れ込んできた」という漠然とした通念に縛られているから、韓国側の反発に、なかなか反論する勇気が出ないのではなかろうか。
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