インテリジェンス・ナウ

米次期政権「対中インテリジェンス態勢」強化へ:中国は米国民44%の個人情報を握る

執筆者:春名幹男 2020年11月25日
エリア: アジア 北米
大統領選直前、200ページに及ぶ報告書を作成して対中情報工作の強化を訴えたシフ米下院情報特別委員長 (C)EPA=時事

 

 中国に対して輸入関税の引き上げなど一方的な強硬策を繰り返したドナルド・トランプ米大統領。しかし、中国側が仕掛けた露骨な対米情報工作にはそれほど反応しなかった。

 中国は、米国がオバマ前政権時代まで中国国内に張り巡らしていたスパイネットワークを一網打尽で壊滅させていた。トランプ政権になってから、中国は米国民約1億4500万人の個人情報をハッキングで入手した。また中国は、独裁国を中心に18カ国に監視カメラシステムを輸出、36カ国とは「世論操作」の技術協力を進め、これら諸国の情報機関との協力関係を強化するに至っている。

 しかし、これほど拡大した中国の情報活動の脅威に対して、米インテリジェンス・コミュニティ(IC)の組織強化に消極的なトランプ政権は本格的な対策を講じなかった。

 むしろこの問題では民主党の方が積極的だ。そもそもICは「中国の脅威に対応する態勢ができていない」(アダム・シフ米下院情報特別委員長=民主)として、2年前から同情報特別委で対中インテリジェンス態勢を見直す作業に着手、米大統領選直前に報告書をまとめていた。

「中国の潜行-中国に対するICの能力」と題するこの報告書は全部で200ページだが、公表されたのは「概要」の37ページだけ。その中で、異例の大胆な改革を提案している。

 ジョー・バイデン次期大統領の対中政策は現政権より「ソフト」とみられがちで、そんな前評判を覆すためにも、次期政権は対中情報工作の強化に努める可能性が大きい。

 米国がこれまでに中国のインテリジェンス工作で受けた甚大な被害を振り返り、今後どのような組織改革を行うのか、探ってみたい。

約9000万円で中国内の情報源漏洩

 最初に、中国国内の米国スパイ網はいかにして壊滅させられてしまったのか、振り返る。

 2012年末までに、中国国内に中央情報局(CIA)が抱えていたスパイとの連絡が次々と途絶えた。合計20人(数十人説もある)が逮捕ないしは処刑されたと伝えられる。

 このためCIAは連邦捜査局(FBI)と共同で、「ハニー・バジャー」(イタチ科のミツアナグマ)というコード名の合同捜査班を立ち上げて捜査、ジェリー・チャン・シン・リー(56、中国名・李振成、服役中)という中国系米国人の元CIA工作員の名前が浮かび、リーが2018年1月15日、ケネディ国際空港でキャセイ航空機から降り立ったところを逮捕した(拙稿『CIAの「中国情報網」が壊滅か:中国系元工作員に疑惑』2018年2月2日 参照).

 リーは香港生まれでハワイ育ち。1982~86年米陸軍入隊。ハワイ太平洋大学で「人的資源管理」の研究で修士号を取得、1994~2007年の13年間、CIAのキャリア工作員「ケース・オフィサー」を務めた。CIA東京支局や北京支局の在勤経験があり、5~10人の情報エージェントを抱えていたとみられる。

 2018年5月8日付起訴状によると、リーは2010年4月26日ごろ、中国国家安全部の情報要員と中国・深圳で会い、協力金として10万ドルの現金をもらい、「一生面倒をみる」と言われた。これ以後、中国側に協力し、それと引き換えに報酬を得た。

 2012年8月には、香港からハワイ経由でバージニア州に一時帰国。その際かばんの中にCIA関係の情報源との会合や、情報源の本名、秘密施設に関する情報など「トップシークレット」ないし「シークレット」の情報を記したノートを持っていた。

 バージニア州のアレクサンドリア連邦地裁での裁判で、リーは中国側から合計84万ドル(約8800万円)以上のカネを受け取っていたことなどが明らかにされた。

中国の米スパイ網壊滅の全容は不明

 リーはCIA退職後も機密文書を保持していた事実を認め、2019年11月22日の判決で、懲役19年の判決を言い渡され、服役中だ。

 しかし、リーが提供した情報が中国側による米スパイ網の壊滅につながった直接的な証拠をFBIは掴めなかったようだ。

 中国による米情報機関員買収は相次ぎ、同年5月には元CIA工作員ケビン・マロリーが2万5000ドルの現金をもらって米機密情報を渡して懲役20年、9月には元国防情報局(DIA)のロン・ハンセンが防衛機密を渡そうとして懲役10年の判決を言い渡された。

 旧ソ連・ロシア関係では、1994年に逮捕された元CIAロシア防諜部長オルドリッチ・エイムズ(終身刑で服役中)の事件がある。

 この事件では、エイムズが旧ソ連内に潜っていたCIAスパイ10人以上の実名を旧ソ連国家保安委員会(KGB)に通報していたことが確認された。旧ソ連側はこれらスパイを通じて、実態を大きく上回るソ連軍事力の誤った情報をレーガン政権に提供していたことなど、ほぼ全容が解明されている。

 しかし、中国内の米スパイ網壊滅の全容は不明のままだ。

米国民1億4500万人の情報を盗む

 アトランタの米連邦大陪審はことし2月10日、米国民約1億4500万人分の個人情報や企業情報を2017年に米大手調査会社から盗んだとして、中国人民解放軍「第54研究所」に所属する中国人ハッカー4人を起訴した。

 この大手調査会社は、米国の三大信用調査会社の1つとして知られるエクイファクス社。2020年の米国総人口は約3億3100万人で、中国は米国民の実に約44%の個人情報を握ったことになる。2015年に中国のハッカー攻撃で米連邦政府人事管理局から2210万人の個人情報が流出したが、この事件はその6倍以上の規模だ。

 中国がこれらの情報を何に利用するか不明だが、米国民の間でさらに対中不信が深刻化したことは疑いない。

 エクイファクス社からの個人情報流出は2017年7月29日に同社が「不正アクセス」を把握、同9月にこれを発表して発覚、同社CEOが辞任した。その約2年半後に米司法省の発表で、中国の仕業と判明したことになる。

 盗まれた個人情報には、名前や社会保障番号、生年月日、住所、運転免許証の番号が含まれている。約20万人のクレジットカード番号や同社の企業秘密も盗まれたとみられる。

 4人の被告は中国在住で身柄は拘束できない状況にあり、FBIが指名手配した。

 中国人民解放軍54研究所は電子情報(ELINT)を担当する参謀本部第4部の傘下にあり、サイバー攻撃を行ったとの報道はこれまでなかった。エクイファクス社が使用しているソフトの脆弱性に付け込み、約20カ国の34のサーバーを経由して、中国人民解放軍の仕業と特定されない工作をしていたという。54研究所がこの作戦を実行した理由は不明だ。

「デジタル独裁主義」の輸出

 中国は世界最悪の監視国家と言われる。最も多数の監視カメラや顔の識別装置を設置して、反政府活動を抑制し一党独裁を維持している。

 いま問題化しているのは、中国がこうした高度な監視システムを独裁国家に輸出して「技術主導の独裁」を世界に拡大し、同時に中国とこれら諸国の情報機関との協力関係を進めていることだ。

『ニューヨーク・タイムズ』によると、中国のシステムを輸入して、完全な国民監視体制を敷いたのは南米のエクアドル。エクアドルはラファエル・コレア前大統領が憲法改正で独裁制を確立した。その後「人口当たりの殺人率の引き下げ」や「麻薬関係の犯罪防止」を理由に全土に4300台の監視カメラを設置。

 笑えない話だが、「時代後れ」の代名詞となっているガラパゴス諸島からアマゾン源流のジャングルまでポールの先端や屋根の上に監視装置を配置している。

 画像は「ECU911」という名称のシステムで、16の監視センターに集められ、3000人以上の警察や国内情報機関の専門家が分析、必要に応じてカメラを操作する。関係機器は中国の華為技術(ファーウェイ)や国家管理企業CEIEC社から輸入した。

 こうした装置はアフリカのジンバブエやケニア、中東のアラブ首長国連邦、南アジアのパキスタン、中央アジアのウズベキスタンなど18カ国が輸入。南米では模造装置をベネズエラやボリビアが導入しているという。

 他の情報によると、中国は人工知能(AI)を利用した反政府活動家を見分ける監視システムを約60カ国に輸出、「デジタル独裁輸出」と揶揄されている。さらに、36カ国とは「世論操作」の技術協力を進め、これら諸国の情報機関との関係を深めているのも不気味だ。

中国官僚のツイッター利用250%増

 米下院情報特別委の調査では、こうした情報も含めて計数千件の分析文書がスタッフによってまとめられ、情報機関の専門家から数百時間にわたって聞き取り調査が行われた。

 その結果、中国と競争するための大幅な資金配分の調整、大規模な情報機関改革、中国および中国語専門家の養成、インド太平洋地域への外交・経済・防衛プレゼンスの拡大、中国の多面的な挑戦に対応するため国防総省以外の省庁の支援で戦略的分析を行う必要性――を強調している。

 米情報コミュニティは、2001年9月の9・11米中枢同時多発テロ事件後に、1947年国家安全保障法以来の大幅な情報機関改革を実施、コミュニティを統括する国家情報長官(DNI)を創設し、対テロ対策を情報機関の中心的課題にしてきた。

 そのため、中国のインテリジェンス工作への対応が後手に回ってしまった。

 新しい対策の中で意外だったのは、「中国による大規模な影響力強化の工作」に対抗するため、「公開情報(OSINT)分析」の重要性を強調していることだ。

 2019年6月から始まった香港の抗議運動に対して、中国当局はフェイスブックやツイッター、ユーチューブを活用、謀略情報を流し始めた。

 また新型コロナウイルス感染の急激な拡大を受けて、中国の官僚らによるツイッター利用が前年比250%も急増した。積極的に「感染拡大は米国の陰謀」といった謀略情報を拡散させ、政府系メディアがこれに呼応するといった宣伝工作・世論操作が行われていたという。こうしたOSINTを分析する態勢が米側にはできていなかったようだ。

 「中国側の意図と能力を理解することから始める」とシフ委員長は組織改革の必要性を強調している。

 

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
春名幹男(はるなみきお) 1946年京都市生れ。国際アナリスト、NPO法人インテリジェンス研究所理事。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授、早稲田大学客員教授を歴任。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『米中冷戦と日本』(PHP)、『仮面の日米同盟』(文春新書)などがある。
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