霊柩車を撮る群衆と「現代の合掌」――スマホとSNSが変えた写真観

執筆者:大山顕 2022年9月27日
タグ: 日本 安倍晋三
エリア: アジア
大勢の人たちに見守られ、増上寺を出る安倍晋三元首相の亡骸を乗せた霊柩車(手前)=2022年7月12日、東京都港区 (C)時事
安倍晋三元首相の亡骸を乗せた霊柩車に向けて、群衆が一斉にスマホを持った腕を伸ばす。かつてなら強い禁忌の感覚を呼び起こしたはずの撮影行為に、なぜ私たちはさほど違和感を覚えなくなったのか。「写真」の意義そのものが変化していると、『新写真論』著者は指摘する。

 7月12日、安倍晋三元首相の葬儀終了後、東京・芝の増上寺から遺体を乗せた霊柩車が出てくると、現地に詰めかけた人びとはスマホをかかげて写真を撮った。その光景がニュースで流れると、SNSでは批判の声が上がった。不謹慎だ、と。たしかに沿道を埋め尽くした群衆が一斉にスマホを持った腕を伸ばす光景は異様と言っていいものだった。

 眉をひそめる人びとの気持ちも分かる。だが、一方で別に良いではないか、とも思う。ぼくはこの出来事を、イデオロギーや作法の問題としてではなく、「写真」の問題として考えたい。以前なら、霊柩車に向けてカメラを向けることは「不敬」「失礼」あるいは「不吉」だと言って間違いなかった。しかし今はそう簡単に断じることができない。スマホとSNSによって「写真」の意義が一変したからだ。人びとが変わったのではなく、写真が変わったのだ。

スマホ+SNSによる写真の革命

 いまやあらゆる人びとがスマホというカメラを所有している。しかも常に持ち歩いている。写真がフィルムからデジタルになったとき「これは革命だ」と思ったが、実際の革命はスマホとSNSの登場によって起こった。

 かつての写真は、カメラ本体とレンズそのほか備品がたいへん高価で、操作も難しかった。ランニングコストもバカにならず、フィルムにも現像にもプリントにもその都度お金がかかる。そのあげく、ちゃんと撮れたかどうか、現像するまでは分からない。高コストなのに失敗が多いという代物だった。

 これがスマホで劇的に変わる。難しい操作をせずとも思った通りの、いや、思った以上の写真を撮ることができる。しかもその場で確認可能で、さらに様々なフィルター機能が付いていて、すぐに修整・加工もできる。これらがほぼ無料で可能になった(スマホ代金と通信料を「カメラ代」とみなすかどうかによるが)。

 ここまでは、以前から指摘されてきたことではある。フルオートの安価な小型フィルムカメラが普及したときや、デジカメが普及したとき、特に携帯電話にカメラが搭載されるようになったときに盛んに論じられた。ぼくの母親と妹が、はじめて自分だけのカメラを持つようになったのは、携帯電話によってだった。

 なぜスマホとSNSの台頭が写真における「革命」かといえば、写真を多くの他人の目に触れさせることができるようになったからである。しかも撮ったその場で。

 それまで、デジカメの時代になっても、プロカメラマンでもないかぎり、自分が撮った写真を発表する場などほとんどなかった。友人同士で焼き増しあるいはメールで送るか、家族アルバムにしまわれる程度で、不特定多数の人びとの目に触れる可能性などなかった。それが一変した。写真は見られるために撮られるものになったのだ。そんなの当たり前ではないか、と今では思うだろう。お金をかけたあげくほとんど見られない、というのがSNS登場以前、十数年前までの写真だったことを、すっかり忘れている。

 これによって、写真の何が変わったのか。まず、特権性がなくなった。報道カメラマンが撮った写真と、現場に居合わせた一般人がスマホで撮ったものを区別することに意味があるだろうか。

 かつてプロカメラマンが持っていた特権のほとんどは、カメラが高価で扱いが難しいことと、発表の場を持っていることから生み出されたものだった。実際、テレビ局や新聞社が、一般人がTwitterにアップした現場写真・映像を転載するのはもはやふつうのことになっている。ニュースバリューは、撮影者の資格と技術によってではなく、単にそこに居合わせたことによってもたらされるようになった。だから、霊柩車に向かってスマホを掲げることが不謹慎なら、いくつかのニュースメディアに掲載されていた、霊柩車越しにその人びとを撮った報道写真もまた不謹慎と言わざるをえない。しかしそうはみなされない。写真をとりまく環境の変化に価値観のアップデートが追いついていないからだ。

「記念写真」から「確認写真」へ

 撮影と発表にコストがかからなくなったことによる、もうひとつ大きな変化は、経験と感情の「確認」のために写真が使われるようになったことだ。

 結婚披露宴における写真撮影の様子を想像してみてほしい。ケーキ入刀をはじめ、しばしば撮影タイムが設けられる。参列者は大挙して写真を撮る。考えてみれば、各々が撮影する必要はない。どうせどれも似たり寄ったりの写真になる。最も良いポジションから撮られた誰かの写真をシェアすればいいだけのことだ。なんならすべてカメラマンに任せ、参列者はそれをダウンロードしたほうがよっぽど良い写真が手に入る。なのにみんなあくまで自分のスマホで新郎新婦の写真を撮りたがる。なぜか。良い写真を撮りたいからではなく、披露宴に参加して花嫁花婿を祝ったという「経験」をシャッターボタンを押すことによって確かめているからだ。

 参列者がこぞって新郎新婦のもとに行くなか、それに参加せずひとりテーブルに留まったら、居心地の悪さを感じはしないだろうか。まるでふたりを祝福していないかのように見えるのではないか。あるいは、旅行先でみんながかわるがわる写真を撮るなか、自分は別にいいかな、と思って何もしないでいたら「あれ、撮らないの?」と言われて仕方ないからとりあえずスマホを構えた、というようなことはないだろうか。

 写真にコストがかからなくなり、呼吸をするように撮影が行われるようになると「撮る理由」よりも「撮らない理由」が必要になる。せっかくの「経験」なのに、なぜそれを「確認」しないのか。簡単に撮れるのに、と。祝福しているから・楽しいから写真を撮るのではない。祝福していること・楽しんでいることを確認し、示すために写真を撮るのだ。

経験確認のアウトソーシング

 「いいね」とシェアというSNSを特徴づける仕組みもまた、写真を経験と感情の確認の道具にする。物事が経験として認識されるのは、それが過ぎ去ってからだ。自分ではなんとも思っていなかったが、あとから人に言われてあれは得がたい経験だったのだ、と気付くこともある。要するに、今自分が直面している光景は確かな「経験」ではあるが、そこで自分がどういう感情を抱いたかをその場で認識するのは難しい。

 それを「いいね」が簡単にしてくれる。他人から認められることほど、安心して「これは自分の経験なのだ」と胸をはっていえることもない。「経験」と「感情」は、案外自分ひとりでは決めがたい。SNSにポストすれば、それをフォロワーがやってくれる。確認のアウトソーシングだ。「いいね」がたくさん付いたぞ、よしこれはわたしの大事な経験だ、というように。

 経験の確認が文章ではなく写真の投稿によってなされるのもポイントだ。文章にするには、それがすでに「経験化」「感情化」されていなければならない。文章の難しさはそこにある。しかし写真は、とりあえずシャッターを押しさえすれば撮れてしまう。写真はそれがまだなにかわからない出来事・光景を他人に判定してもらうのにうってつけのメディアなのだ。

 霊柩車を適切に見送るのは、結婚披露宴での振る舞いよりもずっと難しい。手を合わせて目を瞑り頭を垂れる、といったところだろうか。日本に霊柩車が走るようになったのは大正時代前半だと言う。近代都市の出現と歩調を合わせた比較的新しい風習だ。従って、無関係の人間がこれと遭遇した際には、それまでの、いわゆる野辺送りなどとは異なる作法が必要とされたはずだ。しかし、結局これといった作法は確立しないままだったように思う。そうこうしているうちに、現在では霊柩車然とした自動車はほとんど見られなくなってしまった。

 「手を合わせて目を瞑り頭を垂れる」とは、スマホ時代の作法としては、要するに「何も見ず、何もしない」ということだ。無難ではあるが、悼む気持ちを自らに対して確認するには、もうちょっと何かしたい。沿道でスマホを掲げた人びとは、そこにでかけたこと、居合わせたことを大事な経験であり、自分は悼む気持ちを持っているのだと確認したかったのではないか。一斉に掲げられたスマホは、現代の合掌のようにぼくには見えた。霊柩車を撮ることを、以前の写真の性質に基づいて「不謹慎」と断じることはできない。SNSと結びついた写真は、フィルム時代の写真とはまったく別のものになっているのだから。

「儀式」としての写真撮影

 その場ですぐに「経験」であると確認できることには、別の効用がある。「次へ行ける」のだ。たとえばこういう経験はないだろうか。会社の飲み会。乾杯から2時間経ち、だらだらしてきた。そろそろかな、というころ、幹事が「みなさま宴もたけなわではございますが」と言い、最後に「せっかくなんで記念撮影でも!」となる。幹事のスマホが店員さんに手渡され、左もっと詰めて! などのやりとりがなされた後シャッターが切られる。やれやれ、これでお開き。

 この写真撮影は一本締めのようなものだ。写真自体にはとりたてて意味はなく、しみじみ見返されることはない。なんとなく締まるアクションが必要とされるときに、写真撮影がちょうどいいというだけだ。これで次に行ける。

 冠婚葬祭、旅行、飲み会など、日常の中に割り込んでくるさまざま出来事。速やかにその場でそれを「経験」であると確定し、ふたたび日常へ戻る。そのためのスイッチがシャッターボタンになっているのではないだろうか。悲しみに折り合いをつけて日常へ戻れるようにする、というのは儀式の機能そのものである。

 あとは、安倍元首相の国葬がどのような体裁で行われるか、だ。ぜひ大勢の人がスマホで写真を撮りまくることができるようにしてほしい。それが現代の「儀式」だから。そして次に行こうではないか。

カテゴリ: カルチャー 社会
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執筆者プロフィール
大山顕 写真家/ライター。1972年生まれ。工業地域を遊び場として育つ。千葉大学工学部卒業後、松下電器株式会社(現Panasonic)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めた後、写真家として独立。出版、イベント主催なども行っている。著書に『工場萌え』(石井哲との共著、2007年)、『団地の見究』(2008年)、『ショッピングモールから考える』(東浩紀との共著、2016年)、『立体交差』(2019年)、『新写真論』(2020年)など。
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