人文知の伝統を近世日本に探る――『小林秀雄の謎を解く』をめぐって

執筆者:苅部直 2023年10月28日
カテゴリ: カルチャー
批評家・小林秀雄のベストセラー随筆集『考えるヒント』において、小林は〈近世と近代を貫いて流れてきた、日本における人文知の伝統〉を発掘した(写真はイメージです)(Billion Photos / Shutterstock)
一時期は大学受験生必読と言われた小林秀雄『考へるヒント』。月刊誌連載だったこの随筆は、当時の時代精神と切り結ぶ小林の姿勢が如実に表れている。これを題材にして、小林の知られざる側面に迫った『小林秀雄の謎を解く』を刊行した苅部直氏が、小林の歴史観や人文知のあり方を考察する。

 一時期は大学受験生必読と言われた小林秀雄『考へるヒント』。月刊誌連載だったこの随筆は、当時の時代精神と切り結ぶ小林の姿勢が如実に表れている。これを題材にして、小林の知られざる側面に迫った『小林秀雄の謎を解く』を刊行した苅部直氏が、小林の歴史観や人文知のあり方を考察する。

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 文庫本の帯に「センター試験で話題沸騰」の文句。センター試験とはもちろん、現在の大学入学共通テストの前身にあたる、2020(令和2)年度まで実施されていた大学入学センター試験のことであるが、このコピーを見て、どんな本だと思うだろうか。

 実はこれは、文春文庫の小林秀雄『考えるヒント』第1巻(単行本は1964年刊行、1974年に文庫化)が、2015(平成27)年7月に増刷(新装版第19刷)されたさい、つけられた帯に印刷された文句である。この第1巻は、雑誌『文藝春秋』に小林秀雄が連載していた随筆「考へるヒント」(以下、連載の題名は単行本に合わせて旧かなで表記する)を主に収めているが、その初出と重なる時期に、『芸術新潮』1962(昭和37)年6月号上で発表された小林の随筆「鐔(つば)」が、2013年度の大学入試センター試験の「現代文」問題で使われた。それを記念して(?)新たに作られた帯だったのだろう。

 古書をインターネットで検索すると、2014年にも増刷されていたことが確認できるので、出題の直後に帯が作られ、数年のあいだ増刷・出庫のたびに使われていたと思われる。『考えるヒント』の第2巻にも同じ帯がかけられた時期があったことも、ネット上の画像で確認できる。

 年長の世代の方には、大学入試の受験生だった時代に、過去の出題例や模擬試験の問題を通じて小林秀雄の文章を読んだという記憶をもつ人も多いだろう。1960年代なかばから30年ほどのあいだ、作品が出題文として使われることがもっとも多い作家として、大学入試の世界に君臨し続けた。とりわけ文庫本『考えるヒント』は、そこからの出題例も多く、受験生の必読書として推薦されていたのである。

 2013年度のセンター試験での「鐔」の出題は、大学入試の世界では久々の小林作品の起用であり、現代の高校生には難しいという批判を浴びた。だが版元の側はこれをきっかけにして、かつての入試必読書だった『考えるヒント』の文庫本を増刷し、むしろ小林秀雄を懐かしいと思う年長世代に売ることを考えたのだろう。いまでは、この帯が巻かれた本を新刊書店で見かけることはない。

「考へるヒント」に書かれた徳川思想史へのまなざし

 「鐔」は、『藝術新潮』に連載されていた「藝術随想」の一篇で、1962年6月号に載ったもの。「考へるヒント」の連載は『文藝春秋』の1959年5月号から実質上始まっていたが、同じ1962年6月号に掲載されているのは「福澤諭吉」であった。前者で小林は、戦国時代において刀の鐔の意匠に大きな変化が生じている背景に、その時代における身分秩序の流動化という社会の大きな変動を見いだす。後者は、「古学」すなわち徳川時代の儒学思想に対する深い理解と評価の上に、西洋と日本とをともに見わたす、福澤の「文明論」も展開していたと指摘する作品であった。

 「鐔」では、中世から近世への転換期に社会と文化の大きな変動を見わたす。そして「福澤諭吉」では、その時代を出発点とした徳川時代の思想史の延長線上に、明治時代における西洋文化の受容を位置づける。小林自身の歴史観における、近世思想の出発点と到達点とを、二つの随筆はそれぞれに示すものであった。

 連載「考へるヒント」を収めた、『考えるヒント』の第1巻および第2巻(1974年)では、未収録の回があり、作品の順序が変わっているせいで見えにくくなっているが、この連載の第1回「好き嫌ひ――愛する事と知る事と」(『文藝春秋』1959年5月号)で小林がとりあげたのは、徳川時代の儒学者、伊藤仁斎と、国学者、本居宣長の思想であった。両者はともに時代を代表する思想家であり、さらに仁斎の著作は福澤諭吉の父、百助が好んで読んでいたものであった。

 そして「考へるヒント」の連載は、「忠臣蔵」(1961年1月号)から後は、最終回の「道徳」(1964年6月号)に至るまで、徳川時代の儒学者、伊藤仁斎・荻生徂徠の思想と、その思想史の流れが本居宣長の国学、さらに明治時代の洋学知識人である西周・福澤諭吉へと継承されてゆく過程を論じるようになっていた。いわば小林秀雄による徳川思想史叙述の試みが展開されていたのである。

 人々が思うままにエネルギーを発揮し、旧来の身分秩序を覆した「下剋上」の戦国時代を、デモクラシーとすら呼ぶこともできる社会の出現として、小林は高く評価している。それに対して徳川政権による統一秩序の形成は、公儀と大名家による支配のもとに、強固な身分制度を再び作りあげ、社会に固い枠をはめた。「鎖国」を通じて、海外との自由な交流も阻まれてしまう。だが、それがかえって「近世の学問」が豊かに発達する基盤をなした。そう考えるところに、小林の独自な発想がある。

 つまり、身分制によって固定された社会のなかで、人々のエネルギーは精神の内面を見つめ、修養を深めてゆく、心のなかの戦いへと向かっていった。そこから徳川時代の思想史が始まる。中世の禅仏教の系譜を継承しながら、儒学における朱子学・陽明学の「心法」の実践へとむかった中江藤樹が、その最初期の代表者である。そして、坐禅を通じてひたすら心の内面に目をむける禅仏教とは異なり、儒学者の場合は、四書五経などの経書を読むことが、学問の基本である。そこで、たとえば『論語』のような古典のテクストの言葉を「熟読」し「愛読」し、みずからの生き方に滲透させてゆくこと。この「精読」の方法を深めたところに、伊藤仁斎、荻生徂徠、さらに国学における本居宣長といった、「近世の学問」におけるすぐれた思想家たちに共通する特徴を見たのである。

「私学」から生まれた日本の人文知

 また、そうした徳川時代から近代へとつながる思想の系譜を生み出した学者たちが、いずれも統治権力から独立して、家塾をみずからの学問実践の場とした「民間学者」であったことを、小林は強調する。現代の思想史研究における見解とは異なって、全宇宙を貫く抽象的な「理」を中心とした理論体系である朱子学が、徳川家康の時代から公儀の「官学」として君臨していたと小林は考えていた。これに対して、荻生徂徠は「歴史」の激しい変化や、出来事の一回性、人間一人ひとりの個性といった多様性を強調する。また本居宣長は、徂徠の学問方法論を継承しながら日本の古典に向かい、繊細で複雑な人の「情(こころ)」の動きに目をむけた。こうした、歴史の変動、社会の複雑さ、出来事の個別性、人の心の複雑な動きをとらえ、柔軟に対処する知恵が、徳川時代の「私学」において育てられ、近代に向かう動きを準備した。

 ここで小林が発掘したのは、近世と近代を貫いて流れてきた、日本における人文知の伝統にほかならない。他面で「考へるヒント」の連載では、一つの法則が世界全体を支配していると見なし、数量化されたデータのみを素材とする近代科学の方法が、二十世紀においては人間事象の理解、すなわち文系の学問・評論にも滲透していることを、きびしく批判してもいた。それはまた、一定のイデオロギーを大衆の間に普及させ、一つの方向へと動員しようとする、現代の政治権力に対する批判とも重なっている。必要悪として権力を運用する政治の世界から独立して、市民が非政治的な活動のなかで、イデオロギーから自由に文化を生み、伝えてゆく。そうした政治と非政治との緊張関係を保つ必要性を、小林が痛切に感じていたことが、徳川時代における「私学」の意義を発見させたと言えるかもしれない。

対話こそが人文知を豊かに育てる

 しかしこうした徳川思想史を構想する作業を、小林は1960年代後半には放棄してしまい、大著『本居宣長』(1977年刊行)の雑誌連載に努力を集中させてゆく。徳川時代における「私学」の系譜に関する言及は、そのなかでも繰り返されてはいるが、福澤諭吉のような近代の思想との関連が論じられることは、もはやなかった。

 それでも、徳川時代の思想に関する理解が、新たな方向で深まりを見せていたことが、小林の宣長論からはうかがえる。『小林秀雄の謎を解く』においては、単行本・全集には収められなかった「本居宣長」の連載第46回(『新潮』1973年3月号)を再録している。そこで小林は宣長の言語論に関連させて、言葉の営みにおける「会話」の意義を強調する。人と人との「会話」は、常に誤解、食い違い、勘違いを含みながら「不安定」に続いてゆく。しかし、そのやりとりを楽しみ、充実した関係を続けてゆくなかで、人は他者を深く理解し、自分自身を発見する。そうした動的な過程に関する洞察が、宣長の思想には見られると小林は考えたのだろう。

 そして、宣長だけでなく中江藤樹や伊藤仁斎もまた、対話体の著書を好んで書き、私塾における実践においても師弟が対等に対話していたことを、小林は「考へるヒント」において指摘していた。知の営みにおいて、目的意識を離れて活発な対話を続け、その営みを楽しむこと。それこそが、人間の営みをめぐる知恵である人文知を育て、人の「常識」を豊かなものにするのである。

 考えてみれば、こうした洞察を含んだ小林の作品が、テクストの固定した理解を旨とする大学入試に使われていたのは、不幸な取り合わせだったかもしれない。しかし、その文章が受験の世界から切り離された現在は、むしろそれを柔軟に読み解き、人文知の活性化に生かすことができる、いい時代の到来とも言えるのではないか。

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執筆者プロフィール
苅部直(かるべただし) 1965年、東京都生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。現在、東京大学法学部教授。専門は日本政治思想史。著書に、『光の領国 和辻哲郎』、『丸山眞男―リベラリストの肖像』(サントリー学芸賞)、『移りゆく「教養」』、『鏡のなかの薄明』(毎日書評賞)、『歴史という皮膚』、『安部公房の都市』、『「維新革命」への道――「文明」を求めた十九世紀日本』、『日本思想史への道案内』、『基点としての戦後――政治思想史と現代』、『小林秀雄の謎を解く』など。
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