JR山手線の高田馬場駅周辺では、中国人向けに本場の味を提供する「ガチ中華」の店が目立って増えた。近隣の早稲田大学に中国人留学生が増えたほかにも、治安が良く住みやすいという高田馬場の地域性が影響しているという。海外から日本国内に移り住む人々の暮らしが、日本の風景を変えつつある。ノンフィクション作家の中原一歩氏は、近著『寄せ場のグルメ』(潮出版社)で高田馬場における中国料理店の歴史を繙いた。
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夕方5時。JR高田馬場の駅前は騒然となる。早稲田大学をはじめ、駅周辺にある日本語学校、専門学校の授業が終わり、そこに通う各国の留学生が、一気に駅の構内になだれ込むのだ。日本語は全く聞こえてこない。飛び交うのは韓国語、ベトナム語、タイ語、台湾語、そして、中国語。朝夕の2回、高田馬場駅の周囲が、日本語以外の言語の洪水に飲まれてゆく風景が、この街の日常となって久しい。
高田馬場名物の駅前の巨大看板。かつては、雑居ビルの屋上に日本人学生を意識した「学生ローン」や「予備校」の広告が並んだが、今では中文で書かれた中国人向けの看板ばかりが目立つ。その多くが「日本語塾」や難関大学を意識した「進学塾」「予備校」の看板だ。
また早稲田通りを歩くと、中国人が経営する食堂が目立つ。「麻辣湯」「火鍋串串」「祖房四楼」「蒙古肉餅」「蘇茶」……。中国語の店名からは、中国料理店であることはわかっても、どんな料理が出てくるか想像がつかない。全国の飲食店を網羅する食べログなどのグルメサイトに掲載されていない店も多い。
驚くのは雑居ビルの最上階。表通りには看板がないのに、連日、満員御礼の店もある。客のほとんどが中国人。料理は経営者の出身地の地域性が色濃く反映され、日本人に馴染みのある“町中華”とは別物だ。
駅周辺の表通りだけでも、中国人が経営するこうした食堂が50軒ほどあるという。裏通りや雑居ビルにも店舗はあるが数が多すぎて把握することは難しい。流動も激しく、半年で撤退する店もある。
「競合したら中国人経営者を選びます」
こうした食堂が進出し始めたのは、2017〜18年の出来事だ。中国福建省に本店を構え、中国本土で6万店を展開する「沙県小吃(サケン・シャオチー)」というチェーン店が、海外進出第一号店の場所に選んだのも高田馬場だった。
残念ながら「沙県小吃」高田馬場店は閉店してしまったが、2023年に上野店がオープンし、多くの在日中国人から支持を集めている。
この沙県小吃と並び、「ガチ中華ブーム」の火付け役となったのが、「蘭州ラーメン」だ。
蘭州ラーメンは中国・西北部の甘粛省蘭州発祥の麺料理。牛骨などで取ったスープと、細い麺が特徴であり、パクチーやラー油を浮かべて食べることが多い。
高田馬場駅を出てすぐ、ロータリーの先にあるビルの地下1階に「楼・蘭州拉麺」というお店がある。オープンは2021年。同じビルにはドン・キホーテが入居しており、中国人のほか日本人のガチ中華ファンらしき姿も多い。
また近年、Instagram等のSNSで「映え」ると若い世代に人気なのが「火鍋」。中国の鍋料理で、熱々のスープに具材を入れてしゃぶしゃぶのように食べる。白い「白湯スープ」と赤い「麻辣スープ」の2種類が用意され、2つのスープが混じらないよう中を仕切った専用鍋を用いる。高田馬場にも多く出店しているが、中国人向けの辛い火鍋を出す店もある。
また、最近急速にお店が増えているのが「麻辣湯」。四川省発祥と言われるピリ辛のスープで、春雨や野菜など好きな具材をチョイスできる。お昼時になるとランチで訪れる会社員も多いようだ。
ほか、近年中国本土で急速に増えているという「COTTI COFFEE(コッティコーヒー)」も、2023年に高田馬場店がオープンしている。
高田馬場駅前で地域密着型の不動産業を営む男性は、中国人経営の店舗は今後も増えると予想する。
「表通りに面した元飲食店の居抜き物件でさえ、家賃は70万~80万円。契約時には敷金、礼金とは別に家賃10カ月の保証金が必要ですが、ほとんどの場合、即日、日本円の現金払いです。身元もはっきりしているし、家賃を値切ったり、支払いが滞ることもない」
そう言った上で、男性は私の耳元でこうささやいた。
「競合したら中国人経営者を選びます。金払いがいいんです」
「留学生30万人計画」の追い風
なぜ中国人は高田馬場を目指すのか――。
高田馬場は中国人に人気の高い名門・早稲田大学に隣接するターミナル駅で、中国人留学生のための日本語学校、有名大学を目指す進学塾がひしめいている。今や“早稲田ブランド”は超難関の東京大学や京都大学を凌ぐ人気だ。早稲田大学は、2000年代初頭の早い段階から留学生獲得に動いた。日本は長期的にみると少子化のあおりを受け受験生が減少することが目に見えていたからだ。
そこで、目をつけたのが好景気の影響で富裕層が急増し、日本とも距離が近い中国だった。2008年、文部科学省が発表した「留学生30万人計画(2020年を目標)」も追い風となった。その結果、最新の2018年の留学生総数は約29万9000人にまで到達。その4割を中国人が占める。しかも、その留学生像は、従来の日本人の先入観とはかけ離れていて驚くばかりだ。
「中国人留学生は改革開放の恩恵を受け、同時に『独生子女(一人っ子政策)』で生まれた子どもたちです。だから、中流以上の家庭であれば、子どもを国外の私立大学に留学させ、毎月、家賃と生活費程度の仕送りをする経済的余裕があります。一人っ子なので、両親以外に祖父母、親戚からも援助が期待できる。中には、学生の身分でありながら、学費とは別に、親のお金で東京の一等地に投資用のタワマンを購入する超富裕層もいます。上を見たらきりがありません」。前述の男性はこう語った。
中国人による中国人のための中国食堂
こうした中国人留学生相手の店は、昨今、「ガチ中華」と呼ばれている。それは日本人が知る「中華料理」でも「町中華」でもない。
日本人が慣れ親しんだ「中華料理」は、1980年代以前に日本にやってきた中国人が、故郷の味を日本人向けにアレンジして誕生した。有名なのが、「四川料理の父」と呼ばれた陳建民で、あの「麻婆豆腐」の日本風レシピや「海老のチリソース」を考案した人物として知られている。陳建民は、東京・平河町に「四川飯店」を開店し、その味はかつて「料理の鉄人」というテレビ番組で、中華の鉄人として一躍、時の人となった陳建一、そして、その息子で現オーナーである陳建太郎へと三代にわたって引き継がれている。
そもそも、陳建民は、中国四川省の出身。若くして料理人を志し、中国各地のレストランを渡り歩いた。1952(昭和27)年に来日。その後、四川飯店を出店し、NHK「きょうの料理」の講師を務めるなど、日本に中国料理を広めた第一人者として知られる。
建民のように終戦後の1950年代、60年代に中国からやってきた華僑は「老華僑」と呼ばれる。同じく、横浜や神戸、長崎にある「中華街」を形成した人々も「老華僑」だ。彼らは帰化し、日本国籍を取得。中国系日本人として日本に根付いた。
こうした「老華僑」が持ち込んだ中国料理の総称が今の「中華料理」だ。彼らはいち早く、日本人の生活、慣習に溶け込むため、日本人の口に合った中国料理を次々と考案した。
しかし、現在の高田馬場のそれは「中華料理」ではない。そもそも、世界最大の人口を有する中国は、民族の坩堝だ。また、国土そのものが広大で、その土地によって全く異なる文化を有する中国は、数え切れない郷土料理が潜む、魅惑の食の大陸でもある。
例えば「華北」と呼ばれる「河北省」「山西省」「内モンゴル自治区」。大平原に暮らす遊牧騎馬民族の郷土料理は、小麦を主食とし、水餃子や饅頭など日本人にもよく知られている。一方の「華南」。南シナ海に面し、温暖な「広東省」「海南省」の主食は米。海で獲れた海産物を使った料理が並ぶ。
つまり、高田馬場に誕生しつつあるのは、中国の郷土食が色濃く反映された中国料理店、中国食堂なのだ。客の大半は中国人。日本人からすると、中国に旅行に行った時に食べる、現地の味だ。
高田馬場ならのびのび商売できる
JR高田馬場駅から、早稲田方面に5分ほど歩いた場所にある「本格熊猫」は、四川省出身のオーナー・劉少虎さんご夫妻が7年前に開いた店だ。午後4時。店に入ると、大学や予備校帰りの中国人留学生で7割ほど席が埋まっていた。日本語はほぼ聞こえない。鼻を突くのは醤油の焦げる匂いだろうか。ただし、日本の醤油の香りとは若干、異なる。それにしても、食欲をそそる香りだ。まさに、日本にいながら中国を旅しているような気分になる。
劉さんは料理だけでなく、旅行関係のビジネスも展開していて、いわゆる「経営者」の雰囲気がある。店で出すのは故郷「四川省」の料理だ。
「日本の四川料理は、砂糖が多く使われるので甘く、とても故郷の味とは思えません。お客様の多くが中国人なので、日本人向けにアレンジをせず、中国で食べられている味をそのまま再現しています。最近では本場の味が食べられると日本人客もやってくるようになりました」
劉さんに、なぜ競合の多い高田馬場だったのか、と尋ねた。やはり、高田馬場には中国人が通う日本語学校や予備校、大学があると語り、こう続けた。
「高田馬場は新宿と池袋に挟まれた好立地なのに家賃が安いのです。それに、同じ同胞とはいえ、新宿や池袋は、すでに日本にいる中国人年配者が幅を利かせている。彼らとはビジネスに対する考え方も、文化慣習も全く違う。そうした、縦社会のしがらみが高田馬場にはない。自由にのびのびと商売ができるのです」
この日、私は劉さんの話を聞くことを目的に店を訪れたのだが、いつの間にか食卓には所狭しと料理が並んでいた。しかも、どれも店のメニューにはない豪華なものばかり。あしらいの野菜にまで飾り包丁が施されている。店で働く中国人はいずれも、名だたるレストランで働いていた強者らしい。
「これは私の故郷で、客人を接待する料理です」。蒸した鶏肉を皮ごと薄切りにして、香辛料のたっぷり入った甘辛いソースをつけて食べる前菜や、豚の三枚肉を黒酢のタレで煮込んだ料理は絶品だった。しかし、唐辛子がふんだんに使われた大皿料理を、一人で平らげるのは辛かった。帰り際、劉さんが興味深いことを教えてくれた。
「中国でも新宿、池袋といえば怖いというイメージがあります。けれども、高田馬場にはそうした暗さがない。それに地元の人も中国人に対する偏見がない。真面目にビジネスをしようと思う中国人にとって、この街はとても暮らしやすいのです」
漢字圏の人間にとって親しみやすい町名
高田馬場銀座商店街振興組合・理事長代行の杉森昭祐さんも、高田馬場の「治安の良さ」を強調する。杉森さんは1942年生まれ。組合の最古参の一人だ。戦前に母親が創業した紙問屋を戦後、引き継ぎ、文具店として再建。地元で愛される店として半世紀近く営業を続けてきた。
しかし、数年前に体調を崩したことをきっかけに、早稲田通りに面した店舗そのものはやめてしまった。今でも昔なじみの客から注文を受け、細々と商売は続けている。
「高田馬場が中国人を含むエスニックタウンになったのは、この十数年の出来事です。山手線の隣駅の新大久保は1980年代以前から中国や韓国、イランなど中東の人が集まる街だった。今でこそ韓流の街として観光地になっていますが、当時は派手なネオンが瞬く怪しげな店も多く、ちょっと怖いというイメージがありました。一方の高田馬場は早稲田大学の最寄駅。教育の街であり、表通りは地域密着の店舗ばかりでした。だからこそ、そうした怪しげな店が流入する隙間がなかったのです」
確かに高田馬場の駅前には、学生相手の金貸し業の看板や、派手なネオンの大人の社交街こそあったものの、街の治安、秩序は保たれていた。
しかし、私がこの街に、ある意味での「寄せ場感」を感じるのは、この高田馬場の多国籍化の歴史が、東洋一の歓楽街と呼ばれた新宿・歌舞伎町と深い関わりがあるからだ。事実、30年ほど前まで、駅前には日雇い労働者に仕事を斡旋する「手配師」の姿があった。
「高田馬場は中国人など漢字圏の人間にとっては親しみがあるんです。東京のど真ん中にあるのに、名前に『田』とか『馬』が入っているでしょ。なんだか暮らしやすいイメージがある。事実、私も私費留学で来日した際、最初に暮らしたのが高田馬場でした」
そう語るのは、歌舞伎町案内人の異名で知られる李小牧さんだ。
中国人留学生の立身出世
李さんは新宿界隈では名が知られた人物だ。歌舞伎町にやってくる外国人の観光案内をする傍ら、ジャーナリストとしても活躍。生まれ故郷の中国・湖南省の料理を提供するレストランも経営している。2015年、日本に帰化すると、新宿区議選に3度も立候補。残念ながら落選したが、歌舞伎町の表通りは、李小牧さんのポスターで埋め尽くされた。
李さんは、戦後、中国から日本に渡り、横浜や神戸に中華街を拓くなどして日本に定住した「老華僑」に続く第2世代で「新華僑」と呼ばれる。
李さんが来日した頃、日本と中国は留学生を巡って利害が一致していた。中国は鄧小平氏の改革開放政策を契機に日本など国外を目指す若者が増え、日本では国際化のかけ声のもと、中曽根内閣が打ち出した「留学生10万人計画」が進められたのだ。
李さんが暮らしたのは、早稲田通りから神田川に向かって坂を下った場所だった。当時、外国人が借りることができる部屋は限られていた。来日前に中国で稼いだ全財産をはたいて「六畳風呂なし」の安アパートを借りた。当時、日本円で10万円もあれば、中国の地方都市にマンションが買えた時代で、日本と中国の経済格差は圧倒的だったという。
「とにかくカネのために働きました。ラブホテルの清掃員をしながら、外国人向けの職安で紹介してもらったティッシュ配りなどのアルバイトを掛け持ちしました。その後、歌舞伎町で外国人をストリップ劇場や風俗店に案内し、チップを稼ぐ客引きが当たって、それで歌舞伎町案内人と呼ばれるようになったのです。来日して半年で、月収が100万円を超えました」
「危険な日本の街」歌舞伎町を避けて
李さんのように新天地を目指し、日本で成功した中国人は多い。こうした立身出世の物語が「歌舞伎町」だったことも興味深い。高田馬場は「新宿区の文教地区」であると同時に「東京最大の大歓楽街」歌舞伎町にも隣接しているのだ。
歌舞伎町の歴史は、戦後の新宿、東京の歴史そのものだ。空襲で焼け野原となったこの一帯を、劇場、映画館、演芸場、ダンスホールなどの大衆娯楽を中心とした歓楽街として再生させる計画が立てられたのは終戦直後。やがて、新宿駅という巨大ターミナルに隣接した歌舞伎町には、仕事を求めて全国から若者が押し寄せる。いわゆる、出稼ぎ労働者だ。
働く現場が「歌舞伎町」ならば、その周縁に、この街で働く人々のベッドタウンが誕生するのは時間の問題だった。何しろ「眠らない街」の住人だ。仕事が終わるのは公共交通機関が動いていない夜明け前。歩いて帰ることができて安家賃である必要がある。1980年代以前、歌舞伎町の住人は、日本各地のいわゆる「地方」から、一攫千金を夢見て上京してきた出稼ぎ目的の国内移住者だった。
こうした人々の寝床となったのが、いわゆる「四畳半、木造、風呂・トイレなし」の木賃アパートだ。こうして、歌舞伎町の周縁の高田馬場、新大久保に木賃アパートベルトが形成される。
確かに、歌舞伎町と新大久保を隔てる職安通りを挟んで、新大久保側には今でもトタン屋根のアパートが点在している。こうした安宿は、早稲田大学に通うため上京してきた学生にも好都合だった。早稲田通りから谷を下った場所を流れる「神田川」。そう1973年(昭和48年)、シンガーソングライターの「南こうせつとかぐや姫」が歌って大ヒットした「神田川」の舞台も、この一帯だった。
しかし、1990年代に入ると歌舞伎町は不良中国人の巣窟となり治安は悪化する。ルーツを同じくする中国人が日夜、勢力争いを繰り広げ抗争に発展。中でも1994年の「快活林事件」は歌舞伎町、そして、中国人のイメージを決定づけた。長年、歌舞伎町で飲食店を経営する男性は当時をこう振り返る。
「日本のヤクザも怖いけど、中国人同士の抗争はとにかく派手だった。数十人のグループが武器を手に乱闘を繰り広げました。この事件の直後ですよ。歌舞伎町に『怪しい中国人を見かけたら110番』と書かれたポスターが警察によって張り出されたのは。この街が、このイメージを払拭するのには十数年の年月がかかりました」
この事件の舞台となったのが「快活林」という名前の中国料理店だった。このニュースは中国本土でも大々的に報じられ、中国人にとっても歌舞伎町は「危険な日本の街」の代名詞となった。
しかし、当時、高田馬場の治安は先述した通り、保たれた。そして、30年の歳月が経過した今、高田馬場は世代も価値観も全く異なる中国人が多く暮らす街となった。
早稲田大学留学センターによると、2023年11月の外国人学生在籍数は6133人。そのうち中国籍の学生は3420人と全体の半数以上を占める。また、中国人に追いつけ追い越せと、アジアでは韓国人、台湾人、インドネシア人、タイ人が続く。
かつて早稲田通りが「ラーメン街道」の異名をとる時代もあった。人気店が競って出店し激戦区を形成。また、学生相手のデカ盛りで有名な大衆食堂は「ワセメシ」と呼ばれ愛された。ただ2000年代以降、都心部の地価高騰、店主の高齢化、後継者不足などの理由で、これらの店は姿を消しつつある。そのかわりに「ガチ中華」が増えているというわけだ。
いつの時代も「安くて、早くて、旨い」食堂は、学生街にはつきものだが、その風景は様変わりしつつあるようだ。